森 瑤子 金曜日の女 目 次  あっ  通り雨  オープニング・パーティー  |紅 い 唇《レッド・リツプス》  金曜日の女  同 僚  ポール  別れ話  危険な情事  壁の月  嘘  あっ  金曜の夜でもないのに酒場は混《こ》んでいる。そして金曜日でもないのに|※子《ようこ》がそこへ顔を見せたのは、十日ほど東京を留守にするからだった。 「あれ、珍しいね」  と、カウンターの中からマスターが言った。 「金曜の※ちゃんが木曜の夜現れるのは、曜日まちがえたんじゃないの?」 「今週と来週、これないから」  ※子はカウンターの空いている椅子《いす》に、常連に取り囲まれて坐《すわ》りながら言った。 「また仕事で海外?」  映画雑誌を作っている男が訊《き》いた。 「仕事じゃないの。休養」 「へえ、十日も。贅沢《ぜいたく》だな」 「だってこの二、三年働きづめだもの。死んじゃうわよ」 「今や※ちゃん売れっ子だもんな」  とマスター。 「現在レギュラー何本かかえてるの?」  と、映画雑誌の編集者。 「週刊誌が二本と、月刊誌がエッセイなんか入れて七つ、八つあるんじゃないのかな」  おしぼりで手をふきながら※子が答えた。 「若いのによくやるよな」 「若いからやれるのよ」  と言って彼女は日本酒のオン・ザ・ロックを注文した。 「だけどそれだけのノルマかかえて、よく十日も休みとれたよね」  マスターがちょこちょこと酒の肴《さかな》を※子の前に並べながら言った。 「書きだめよ、死にもの狂い。見て、三キロも痩《や》せちゃった」  実はまだ今夜もこのあと徹夜で頑張り、明け方ちょっと寝て、また出発まで机の前にカンヅメにならなければならない運命なのであった。週刊誌一本とエッセイの連載がまだ残っているのだ。 「で、どこ行くの?」  映画雑誌の編集者が、訊いた。 「バリ島」 「へえ、バリハイのバリ島か。いいねえ南太平洋」  マスターが遠い目をする。明日の今頃《いまごろ》は夜の渚《なぎさ》を眺めながら、月光を浴びてピナコラーダなどを飲んでいるのだ。黒いココ椰子《やし》のシルエット。※子は思わず溜息《ためいき》をついた。 「飛行機で行くの?」  映画雑誌の男の隣で飲んでいた中年のサラリーマンが訊いた。 「当り前だよ」  マスターが笑った。 「泳いで行けやしないさ」 「飛行機か」  とそのサラリーマンは独り言のように呟《つぶや》いた。初めて見かける顔だ、と※子は思った。頭髪が薄くて陰気な顔をしている。 「飛行機といや、こんな話がある」  と映画の男が思いだしたように喋《しやべ》りだした。「ある男が羽田まで行ったんだ。ほら、例の一二三便」 「落ちたやつね」 「そう。ふと電光掲示板を眺めていてね、こう呟いた。一、二、三便か。とすると次は四だ。四、つまり死だとね」 「嘘《うそ》でしょ」  ※子が大きく目を見開いた。 「それでどうしたのよ?」 「やめたって」 「乗らなかったのか?」  とマスター。 「眉《まゆ》つばだなあ、その話。安田さんのストーリーじゃないの?」 「俺《おれ》も訊いた話だよ」  映画の男はニヤリと笑った。 「その前に外国で事故があったでしょう」  と、顔なじみのないサラリーマンがふいに口をはさんだ。 「その時の話だけど、不思議なことがあったんですよ」  中年のサラリーマンはおもむろに両切りのピースを口にくわえた。歯がヤニで黄色い。※子はなんとなくこの男に反感を覚えた。 「何かの都合である男がその便に乗り遅れたんですな。ところがその飛行機が落ちた。乗客名簿が発表されると男の名があるんで、留守宅では騒然となった。当然ですな」  男は芝居がかった間をおいて煙を吐きだした。 「親戚《しんせき》の者が集まって、嘆き悲しんでいる所に、件《くだん》の男が次の便でひょっこりと帰ってきた。悲しみの場転じて祝いの席となり、飲めや唄《うた》えやの大騒ぎ。酒盛りは延々と続き、客も帰り、男は酔った足でトイレへ行ったんですな。ところがいつまでたっても出てこない。奥さんが心配してドアを叩《たた》いた。返事がない。それでドアを開いてみると、男がこと切れていた。脳溢血《のういつけつ》ですわ」 「死んじゃったの?」  ※子が甲高い声を上げた。 「結局、そういう運命《さだめ》なんですな、その男は。人間の寿命というのは生まれた時から定まっているそうですから。その男はどうあってもその日に死ぬことになっていたんでしょう」  一同は一瞬しんとして顔を見合わせた。 「嫌だわ」  と※子が表情を固くした。 「あたしこわいわ」  するとピースをくわえたままの男は、まじまじと※子の顔をみつめて言った。 「大丈夫ですよ」 「そお?」  眉《まゆ》を寄せたまま※子。 「大丈夫です」  ひどく確信のある言い方だった。 「絶対です。私がうけおいます」 「うけおいますっていったってねえ」  と※子は苦笑してマスターを見た。 「大丈夫ですって」  と男は煙草《たばこ》を消しながら執拗《しつよう》に言った。 「死相というのがあるんですな。知ってますか」 「知らないねえ」  マスターが首をすくめた。 「あるんですよ、それが。死相というのが出るんです」 「あんた、わかるの?」  映画の男。 「誰でもわかります。気をつけて見さえすればの話ですよ」 「どう出るの?」  ※子が身をねじって中年男を見た。 「ここにこう出るんです」  と男は自分の手で、鼻のあたりを水平に撫《な》でた。 「このあたりに横に線が出る。少し幅のある暗い線です」  またしても一同がお互いの顔をまじまじとみつめあった。 「ほんとうかねえ」  映画の男が信じられない口調で言った。 「ほんとうですよ。現にさっき、電車の中で一人見かけました」 「横に線が出てた?」 「死相が出てましたな」 「じゃ、今夜死ぬの?」 「ということでしょうな」 「嫌な話だね」  と映画の男が口元を歪《ゆが》めた。 「お宅《たく》も嫌なひとだよ」  誰かが後ろの方で椅子《いす》を引くと、 「マスターお勘定」と言った。マスターがレジに向かった。 「だけどさ」  と映画の男が口調を変えた。 「さっきの話の続きだけどね、その脳溢血《のういつけつ》で倒れちまった男の奥さん、気の毒だねえ。だってさ、どうせ死ぬ運命ならさ、何も自宅のトイレの中でなく、飛行機の方がだよ、保険金下りることだしねえ。トイレじゃ一銭にもならないからなあ」  それでみんながちょっと笑い、その場のしらけた空気が消えた。 「※ちゃんもっと飲めよ、おごるからさ」  とマスターが言った。 「ううんやめとくわ。まだ二十枚も仕事が残ってるのよ」  ※子はチラと腕時計を見て、グラスに残っている酒を飲み干した。 「じゃ、みなさんお先に」  と彼女は椅子を引いた。 「ちょうどいい気分転換になったから、またひとがんばりしなくちゃね」  レジで勘定を払い、出口に向かった。 「※ちゃん」  と誰かが言った。 「え?」  と※子がふりむいた。 「出てるよ」 「何が?」  と※子は声の主を探した。 「顔に一本横の線が」 「悪い冗談、やめてよねッ」  ※子が目をつり上げた。 「ゴメン、ゴメン。冗談だよ、冗談」  映画の男が頭を掻《か》いた。 「ゴメンじゃすまない。安田さんにはお土産買ってこないから」  ※子はプイとそっぽをむいてから、ちょっと気になって酒場の壁のバーミラーに顔を寄せた。 「何よ、失礼しちゃうわ。線なんてどこにも出てないじゃないの」  ※子は肩を揺すって勝ちほこったように言った。小さな酒場の中が笑いで一杯になった。  机の上の電話が鳴り続けている。十回も鳴らしたら留守だと思って諦《あきら》めればいいのに、と苛々《いらいら》しながら|※子《ようこ》は原稿用紙を睨《にら》んでいる。十五、十六、十七……二十回目の呼び出しで、彼女は受話器をわしづかみにすると耳にあてた。十一時に家を出なければ間にあわないのに、まだ七枚も残っているのだ。 「小柴さまのお宅でいらっしゃいますか?」  ばかていねいにも甘ったるい女の声だ。そういう声でとろとろと喋《しやべ》るのは、証券とか土地の電話セールスにきまっている。 「そうですけど、結構です」  といきなり先制攻撃に出て電話を置こうとした。 「あのッ」と敵も必死である。その気迫に息を呑《の》まれていると「小柴さまご本人でいらっしゃいますか?」  と訊《き》いた。 「ご本人は留守ですッ」  と思わず答えた。 「それではあなたさまは?」 「派出所の家政婦ですッ」 「小柴さまは、何時|頃《ごろ》お戻りでいらっしゃいましょうね?」 「そんなことわかりませんッ」  憮然《ぶぜん》として※子。 「それでは明日の今頃もう一度お電話をしてもよろしゅうございますか?」  まどろっこしくもばかていねいな口調。 「よろしいんじゃないんですかッ」  どうせ明日の今時分はバリ島だ。バリ島の白砂の上に横たわり、南国の太陽をさんさんと浴びているはずなのだ。電話でもなんでも好きなだけかけてくれ、と※子は電話を切った。  と、待っていたように玄関のチャイム。こういう時に限り自動車のセールスマンとか聖書研究会とか建て売り住宅を売りつけにくる。つかまったら最後、二十分はねばるから無視することにする。  しかしチャイムは執拗《しつよう》に鳴り続ける。ついに※子は形相《ぎようそう》もものすごく玄関へ。 「どなたッ」 「週刊ウィークリーです」 「あ、ごめんなさい」  慌てて机に戻り、徹夜で仕上げた原稿をとってきて渡した。  出発まであと一時間と少しだ。スーツケースの中身が途中までしか詰まっていない。気が散って、原稿が一行も進まない。  まずスーツケースを詰めてしまい、出かけられるばかりにしておこうと、書きかけのまま机を離れた。歯ブラシと便秘薬とサンオイル。そうそうパスポート。そこへまたまた電話。 「できてますか?」  と心配そうな編集者の声。 「今、やってます」  不機嫌に答える※子。 「大丈夫でしょうねえ」 「今やってますから」 「間にあいますか」 「そのために今やってるんです」 「何枚くらい残ってますか」  敵も必死だ。 「あと三枚ばかり」  四枚サバを読んでそう伝える。 「じゃ何とかいけますね」 「次々と電話がかからなければね」 「どこで頂けますか」 「箱崎《はこざき》にきてもらえる?」 「じゃ箱崎のリムジンの切符売場あたりで」 「遅れないでね。家を十一時に出るから十二時ぴったりよ」 「遅れませんよ」  スーツケースを詰め終わると、ついでに旅用の服に着替えた。旅用といってもジーンズにTシャツ。それに東京はまだ寒いからジャンパーを着て、スーツケースとパスポートの入ったバッグを玄関に出しておき、仕事に戻った。なんとあと二十分しかない。  どう逆立ちしても二十分では七枚は書けない。七転八倒して三枚。十一時を十五分も過ぎている。大あわてでスーツケースを手に家を飛びだした。  表通りでタクシーを拾いながら、※子は顔も洗っていないことを思いだした。歯も磨いていない。お化粧も昨夜酒場に出かける前にチョコチョコとぬりたくっただけだから、剥《は》げちょびれなのに違いないのだ。飛行機に乗ったらゆっくりと洗面し、お化粧もできることだし。タクシーが止まると行き先をつげ、原稿用紙を膝《ひざ》の上に広げた。  タクシーの中で原稿を書いたことはなかったが、贅沢《ぜいたく》は言っていられない。揺れるのでひどい字だ。ひどくても字には変わりない。それで一枚なんとか仕上がる。もうやけっぱちだ。あと三枚。  リムジンの切符売場でウロウロしていた若い担当者が、ぎょっとしたような顔で※子を見た。 「何よ?」 「いやいや、お疲れのようで」  ※子は苦笑して手で顔を撫《な》で上げた。 「花の素顔を見せちゃって、お見苦しいわね」 「花ですかねえ」  担当者が口を滑らせる。 「それより原稿だけど」 「頂いていきます」 「それがダメなのよ」 「え? ダメ!?」  相手は絶句する。 「成田まで一緒に行ってよ。バスの中で書くから」  担当者は否応《いやおう》もなく成田へ同行した。  リムジンの中で※子はなんとか二枚がんばった。が、それが限度。バスは成田の南ウィングに滑りこんだ。 「どうするんですか、あと一枚」 「飛行機を待たせてでも書くから」  と※子は空港内の空いている椅子《いす》に突進した。チェック・インはおろか、彼女の乗る便の搭乗のサインが点滅している。脂汗が流れた。何の因果でこんな仕事をするのかと、つくづくと情けなかった。顔も洗わず歯も磨かず、朝ごはんだって食べていないのだ。それにもしかしたら、飛行機に間に合わないかもしれない。隣で担当者がたて続けに煙草《たばこ》を喫っている。 「ちょっと、その貧乏揺すり、やめてよ」  ※子の声が尖《とが》る。あと数行でなんとかストーリーがしめくくれそうだ。今に見ておれ。明日の今頃《いまごろ》は太陽にジリジリと焼かれているのだ。蒼《あお》い海。白い砂。冷たいトロピカルドリンク。そしてバリの夕陽《ゆうひ》。ついにできた。※子は最後の一枚を担当者の手に押しつけると、チェック・イン・カウンターへ駈《か》けつけた。  その後はひたすら走り続けた。エスカレーターを駈け降り、パスポート検査の一番短い列を探して右往左往し、細長い空港を、搭乗口へ向かってひたすら急いだ。アナウンスが彼女の便の最後の放送をしていた。  長い長い廊下を抜けて三十五番の搭乗口へ飛び込んだ。スチュワーデスが早く早くと手で呼んでいる。そして機内へ。背後で部厚いドアが閉まった。  自分の席がみつかると、安堵《あんど》のあまりそこへへたりこんだ。スチュワーデスがきて、ベルト着用を注意した。ほどなく飛行機が動きだした。  胸の動悸《どうき》が治まるまで長い時間がかかった。飛行機が滑走路を離れてふわりと浮いたのがわかった。いよいよヴァカンスの始まりだ。そう思うと、躰《からだ》の底から歓《よろこ》びが突き上げてきた。すべてやるべきことをやり上げてきたのだ。少しでもやり残したことはなかった。危なかったが、とにかく、連載に穴もあけず出発までこぎつけたのだ。  この解放感。自然に顔がほころんだ。あとは一気にバリ島だ。これだから、この仕事はやめられないと思った。書いている時は死ぬほど辛《つら》いけど、書き終えて、こうしてぼんやりと飛行機の揺れに身をまかせているのは、なんという幸福な気持ちだろう。この解放感のために私は仕事をするんだわ、と※子は思った。  ベルト着用のサインが消えた。飛行機はまだ上昇しているが、※子はバッグの中を探して洗面用具を取りだした。トイレが混《こ》まないうちに顔を洗いたかった。  トイレは狭かったが、ドアの鍵《かぎ》をカチリと閉めると電気がついた。まだ誰も使用していないので、どこもかしこも清潔でピカピカしていた。まず歯を磨いた。たっぷりと歯磨きをつけて、心ゆくまで磨いた。それから洗面器にお湯をタップリ張って石鹸《せつけん》を泡立てて顔を洗った。すすぎも充分して、タオルのかわりにペーパータオルで顔を拭《ふ》いた。  そこで※子は満足の溜息《ためいき》をついた。いい気分だった。久しぶりのいい気分だ。顔はさっぱりしたし口の中も爽快《そうかい》だった。彼女は狭い洗面所の壁の鏡を幸福な気持ちでみつめた。  顔色が悪いのは、ずっとうつむいて書き続けたせいなのだ。※子はペーパータオルで、鼻の脇《わき》のあたりの洗い残した暗ずんだ汚れを落とそうとこすった。あれだけ石鹸を泡立てて洗ったのに落ちないなんて変だわ、と思ったとたんだった。はっとした。  その黒ずんだ影のようなものは、彼女の顔の半分から下に三センチほどの幅で、鼻を横切っているのだった。この線は——。  あの中年のサラリーマンの顔が脳裏を掠《かす》めた。まさか。※子は掌《て》でそこを強くこすった。だが消えない。今や、鏡の中の彼女の顔にはまぎれもない線がはっきりと水平に走っているのだった。※子はぞっとした。  逃げだすようにトイレのドアを押して外に出た。頭の中がクラクラした。目の底が青くなった。  どこをどう通ったのか、とにかく自分の席にたどりついた。躰《からだ》が揺れて隣の人にぶつかった。 「大丈夫ですか?」  とその男が訊《き》いた。 「顔が青いですよ」 「気分が悪いんです」  男に助けられて席についた。 「スチュワーデスを呼びましょう。乗物酔いでしょう」  男の顔が近づいて彼女をのぞきこんだ。あ、と思った。男の顔にもはっきりと水平に線がでていた。  男に呼ばれて、スチュワーデスが近づいてきた。その顔にもやはり水平に線が出ているではないか。  ※子は躰が冷たくなるのを感じた。 「どうかなさいました?」  スチュワーデスの声がした。 「ご気分がお悪いんですか?」  ※子は身動きもせずじっとしていた。躰じゅうの力がぬけてしまっていた。 「飛行機は初めてですか?」  とまたスチュワーデスが訊いた。※子は微《かす》かに首を振った。 「お薬をお持ちしましょう」  と彼女は言った。  そんなものいらないと言おうとしたが、言葉が出なかった。  茫然《ぼうぜん》自失したようになっている※子の目に、前の座席の人々が心配そうに自分の方を見ているのが映った。その二人の男女の顔にも横線があった。  思わず※子はとび上がって後ろを見た。何十人という人々の顔がいっせいに見えた。その顔のどの上にも一人残らず死相が出ているのだった。  更にその奥の禁煙席の人々の顔にも不気味な横の線が見えた。どの顔もどの顔もそうなのだった。※子は椅子《いす》に崩れるように坐《すわ》ると両手で顔を覆《おお》った。 「大丈夫ですか、ほんとうに? 吐きたいですか?」  隣の男が、彼女の背中を当惑したようにそっと撫《な》でた。 「違うのよ、違うのよ」  ※子は手の中に顔を埋めたまま呻《うめ》いた。  それからどれくらいそうしていただろうか。ずいぶん長い時間がたったような気がした。その時、機体がぐらりと揺れた。そらきた、と※子は思った。  通り雨  雨が突然に降りだした。  埃《ほこり》っぽいアスファルトに、黒い大きな染みがひとつ、またひとつときて、あとはいきなりだった。  またたくまに水びたしになった歩道に、激しい雨足が白い煙のような飛沫《しぶき》を上げた。路子は踝《くるぶし》にまとわりつく水気にうんざりしながら、咄嗟《とつさ》に本屋の軒先に飛びこんだ。  甘いようなカルキ臭があたり一面にたちこめ始めていた。都会の雨の匂《にお》いである。  田舎では温かい土の少し生臭い匂いがする。路子は上田で両親と住んだ土地の雨の記憶を一瞬重ねた。  肩も髪も背中も濡《ぬ》れてしまっていて、背中に貼《は》りつく麻のブラウスの感触が気持ちが悪かった。同じように急な雨を避けるために飛びこんで来た人たちで、本屋の軒先には、もう立錐《りつすい》の余地もない。濡れた人間の肉体が放つ獣的な匂いで、ほとんど気分が悪くなりかかるほどだ。人間は獣の仲間なのだ、と思うのはこんな時である。  また一人、長身の男が飛びこんで来て路子のすぐ前に背中をむけて立ち塞《ふさ》がった。あっというまのできごとだったが、その顔、肩、胸の厚み、腰、つまり男の全てに記憶があった。束の間言葉もなく男の広い背中をみつめた。膝《ひざ》が萎《な》えそうだった。  彼女は思いきり息を吸いこむと、右手の指で男の肩胛骨《けんこうこつ》のあたりを軽く叩《たた》いた。  西沢は首だけ捩《ねじ》るようにしてふりむくと、路子を見た。 「あれ、なんだ、君か」  苦笑で始まった笑いがすぐに屈託のない表情に切り替えられるのを、路子は相変わらずだと思いながら眺めた。 「久しぶり」  つとめて平静な声で路子は言った。 「それにしてもさ、もう何年になる?」  西沢は躰《からだ》の向きを斜めにしてそう訊《き》いた。そのあたりで雨宿りしていた人々の眼と耳とを充分に意識した態度だった。 「七年」  路子は答えた。 「へえ、あっというまだな。七年とは、信じられない」  そのように微笑されると女たちは着ているものを脱ぎたくなるような、あの独得の唇の片方の端を歪《ゆが》めた笑いが、西沢の顔に浮かんでいた。かつて路子もそういう女の一人だった。彼女はほろ苦い悔恨にかられながら、男の顔の上の微笑に見惚《みと》れた。 「今どうしてるの?」  と西沢が訊いた。 「働いているわよ、人並みに」  今眼の前にいる男の妻になるはずだったことを思った。あの当時、それ以外のことは考えられなかった。しかし、そんな時代があったことが、今となっては夢のようだ。 「お茶でも飲もうか」  と西沢が誘った。そうしたいからというより、事の成行き上そうせずにはいられないからみたいだった。あたりにはたとえ見知らぬ人々とはいえ、二人のひそかな再会劇を眼の隅で見守り耳で聞いている人たちがいた。その人々の期待を裏切るわけにはいかなかった。 「雨、止むかしら」  路子はまるで夜のように暗くなってしまった空を見上げた。 「通り雨だよ」  西沢は誰にともなくそう言った。そして二人には続けるべく会話がなくなった。つまり周囲に舞茸《まいたけ》のようにそそりたって聞き耳をたてている見知らぬ他人を意識しながらの会話は——。 「どういう仕事しているの?」  西沢が声を落として訊いた。 「普通の、OL」 「事務とか?」 「ワープロ叩いているわ」 「機械に弱かったんじゃなかったっけ?」 「事務にもね。働きに出るつもり、なかったから」  最後の言葉に弱い棘《とげ》があった。再び沈黙になった。 「ちょっと走ろうか」 「そうね」  飛び出すのには勇気の要る雨足だった。 「どうせ濡れてるんだ」 「いいわ」  と同時に二人は本屋の前から雨の中に走り出た。 「どっち?」  顔を雨に叩かれながら路子が訊いた。西沢は左の方角に彼女を引っぱって走り出した。  こんな時に限って喫茶店などみつからないものである。二百メートルあたりの所で二人は頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで、全くの濡れねずみとなった。  そのお互いの姿を眺めあって、とうとう二人は笑いだした。そして歩調を緩めて並んで歩いた。時々肩がぎこちなくぶつかった。だが悪い気はしなかった。  高速道路と道がぶつかる手前に、ガラス張りのカフェバーがみつかった。西沢がドアを押し路子を先に店内に通した。  店内は空《す》いていて冷房がききすぎていた。西沢はアイスコーヒーを注文したが路子は熱いココアを頼んだ。  飲みものが運ばれてくるまで、二人は喋《しやべ》らなかった。熱いおしぼりで腕や首筋の雨を拭いた。そうするだけでベタついた感触が消えた。 「七年と言われて驚いたけど、あまり変わってないね」 「誉め言葉のつもり? 変わったって言われた方がうれしいけどな」  愛想良く笑ったが、二人切りになって最初の言葉にしては、ありきたりだと思った。もっとも何をどんなふうに言われたらうれしいかと訊かれると自分でもわからないのだが。 「あなたは変わったわね」 「そう? どう変わった?」  西沢は心から訊きたそうな顔をした。 「前ほどキリキリしていないし、ひと皮むけたって感じ」 「人生、ある時点で諦《あきら》めが肝心だからな」  ふと西沢は遠い眼をした。ガラス窓の外は急に小降りになったせいか、人通りが多くなっている。 「ほんと。何を諦めたんだか」  路子は口調が酸っぱくならないように気をつけて言った。 「野心、夢、女、金、色々さ」  不意に突き放すように西沢が呟《つぶや》いた。彼は今でもほっそりとしていて、イタチ科の動物を思わせた。  イタチ科だというような見方ができるほどに、自分は年を重ねたのだと、路子は考えた。あの頃はただ夢中だった。 「よく電話するって言って、すっぽかしたわね、覚えていないでしょう」 「そうだった? わりかしマメに電話したと思うけど」 「マメだったのは最初の内だけよ。あとはひどいものだったわ。ほんとうに覚えていないの?」 「ずいぶん電話代かかったのは覚えてるけどさ」 「じゃ他の女にかけてたんでしょう」  路子は薄く笑った。 「あたし、三日間電話の前から一歩も離れないで待ってたことあったわ」 「一歩も?」  西沢は眼を見張った。 「ほとんど一歩も。シャワー浴びる時もトイレも、音が聴こえないと困ると思って、ドアを開いたまま……。夕食のおかず買いに出るのも止めて、生卵かけて食べたわ」  三日間みつめつづけた電話はサーモンピンクだった。 「そんな大事なことなら、そっちから電話をしてくれればよかったじゃないか」  と西沢は言ってストローからアイスコーヒーを啜《すす》った。 「用事なんて特になかったし。あなたが電話するよって言ったから、待ってたのよ」 「三日間一歩も離れずにか?」 「そうよ」 「しかし、なんだね」  と西沢は意味もなく頬《ほお》をこすり上げた。 「そういうのって妙な気持ちだよな。そっちが多分眼つり上げて電話の前で待っていた時にかぎり、こっちは他愛のないどうでもいい奴《やつ》らと、飲んだりくだ巻いたりしててさ。ケロッと忘れてたのに違いないんだ」 「あの時もあなた、そう言ったわ」 「だろう? そんなもんだよ」  二人は急に黙りこんだ。雨は完全に止んでいた。空が少し明るくなり、黄昏刻《たそがれどき》特有の透明感のあるブルーをとり戻していた。  だけど、あの三日間、あたしはある意味で命がけだった。一分一分時間がつのるごとに、命がけになっていったみたいだ、と路子は胸の中で考えていた。彼が友だちと食べたり飲んだりしている時に、あたしの方はほとんど命がけで電話の前に坐っていたのだ。今では何でもないことだけど。今なら笑えるけど、あの時は必死だった。毎秒、眼がこめかみの方に向けて釣り上がっていくのが感じられた。次第に追いつめられ、頑《かたく》なになっていく自分がわかった。  三日目に、突然頭の中で何かがプツンと音をたてて切れた。するともう何がどうでも実に良くなった。 「電話しなかったのが、別れたいっていう理由だと知って、俺《おれ》、愕然《がくぜん》としたよね」 「でしょうね。わかるわ」 「嘘《うそ》だろうって——」 「若い時って、そういう小さなことが、全面的に意味もったりしちゃうのよね。電話のことくらいって思うけど、その電話に全てを託したりしてね」 「そんなもんかね」  西沢は少ししらけたようにそう言った。 「そうよ、そんなものなのよ、若い時って」  自分自身に言いきかせるような感じで路子は言って、一人でうなずいた。アイスコーヒーをもつ西沢の左手に結婚指輪が鈍く光っていた。 「結婚は?」  と相手が唐突に訊《き》いた。 「え?」  路子は狼狽《ろうばい》して訊き返した。 「結婚、したの?」  西沢が質問をくりかえした。 「二十九よ、あたし」  と路子は当然と言わんばかりに答えた。「してるわよ、結婚くらい」  男の視線が指輪のはまっていない薬指に止まったような気がして、彼女は我にもなく赤くなった。 「指輪してないから疑ってんでしょう?」 「いや、別に疑っちゃいないよ」 「普段は指輪しないのよ。水仕事とかですぐ脱《ぬ》けやすいから。一・三カラットのダイヤ、失くしたら怒られるもの」 「うん」  西沢はまだ濡《ぬ》れている歩道に視線を逸《そ》らせた。 「あれからすぐしたのよ、翌年」 「雨、止んだよ」  聞こえなかったみたいに、彼が呟いた。 「結婚して二、三年して、遊んでるのももったいないから、仕事でもしようかと思って。別に生活に困っているってわけでもないんだけど、自分の使う車くらい自分で買いたいじゃない」 「何してるの?」 「言ったでしょ、ワープロ打ってるのよ」 「違うよ、彼」 「彼? ええと彼はサラリーマンよ、単なるサラリーマン」  路子は下唇を軽く咬《か》んだ。「丸紅、丸紅に勤めてるの」  西沢のアイスコーヒーが空になり、ストローが空気の混った音をたてた。彼はそれをテーブルに戻した。 「あなたは?」  ココアが手をつけられないまま温《ぬる》くなっていて、表面に牛乳の膜ができている。 「俺?」 「そう、結婚」 「うん」  西沢は肩をすくめた。路子はココアに手を伸ばし口元まで持って行った。そして意味もなく冷ますような感じで空気を吹いて、膜に皺《しわ》が寄るのをみつめた。 「子供、いるんでしょう?」 「まあね」 「何人?」 「二人」  と答えて彼はチラッと路子を見た。「ま、平均的にやってるよ」 「子供、いくつといくつ?」  ミルクの膜をみつめながら、遠い感じの声で路子が訊いた。 「下が三つで上が六つ」  ゆっくりとココアの入ったカップがテーブルに戻された。 「上の子、六つなの?」  声が硬張《こわば》っていた。 「今年から学校。早いもんだな」  西沢はもう一度路子を盗み見た。 「じゃ結婚したの、あれからほとんどすぐなのね」  彼を見ずに硬い声のまま彼女は言った。 「そんなにすぐってことじゃなかったと思うけどね」  西沢は内ポケットからマイルドセブンを取り出して口で一本抜きとりながら言った。 「だって子供六つなんでしょ? あたしと別れるや否や他の女の人と結婚したんでなければ、計算合わないじゃない」 「別れるや否やだなんて、変な言い方するねぇ」  彼は思わず憮然《ぶぜん》としたように言った。 「でもそうじゃない!」  不意に大きな声が出た。近くにいた二人連れが同時にふりかえって彼女を眺め、それから西沢を眺めた。  彼は鼻白んだように吐いた煙の行方を眼で追っていた。  カフェバーのドアが開いて、若い女が三人|喋《しやべ》りながら入って来た。路子たちの方をじろじろ見ていた男女の視線がそっちへ逸れた。 「君と別れた後で俺が誰といつ結婚しようと、関係ないと思うがね」  灰皿の中に突き刺すようにして煙草の火を消しながら、西沢が言った。 「あまり気分のいいものじゃないわ」  男の手元を見ながら、彼と同じような物の言い方で路子が言った。 「そっちだって一年で結婚したんだろう」 「一年は待ったわ」 「待ってくれなどと言った覚えはないぜ」 「でも、それ一種のモラルじゃないの?」 「関係ないね」  西沢は苦笑した。 「じゃもしも、あの電話のことで大喧嘩《おおげんか》しても、あのまま別れなかったら? そしたらどうなってたっていうの?」 「同じことさ」 「え? 同じことって?」 「電話のことで大喧嘩しなかったら別のことでやりあってたさ。結局|上手《うま》くいかなかったと思うね、相性の問題だよ」 「今の奥さんとは相性が合うってわけ?」 「ああ、少なくとも、電話の前で三日も坐ったきりで待つなんていう執念深い女じゃないってこと」 「好きだったから、待ってたのよ、そんな言い方ってない」  路子は思わず涙ぐみそうになった。 「でもさ、誰かが電話の前から一歩も離れずに三日三晩|俺《おれ》のこと待ってたなんて訊くとさ、思わずグヘェッとなったよね、実際のところ。止めてくれよ、ってさ。別に頼みはしないよ、そんなこと。勝手に三日も待ってさ、恩きせられちゃたまんないってこと。想像しただけで、肩のあたりがじわっとして来たものな」 「たった一本の電話がどうしてできなかったのかってことの方が、よっぽど問題だったのよ。だって、ダイヤル回すだけでいいのよ。あたしはあの家にずっといたんだし、そのことは知ってたはずでしょ。あなたは電話をくれると言った。だからあたしは待っていた。電話をして来た時にいないと、またいつかけてくるかわからないから、出かけられなかった。二日目はもっと出かけられない気持になって、三日目になると、もうだめ。何かが切れちゃった。修復できない何かが切れちゃったのよ」 「狂ってるよ」 「電話するって言って、して来ないってことの方が問題よ。そういうことのくりかえしだったわ、あなたって。あたし疲れちゃったのよ」 「俺だって同じさ。そういう女に、俺も疲れたのさ」 「だからっていって、別れるなりすぐに別の女と結婚することないじゃない。まるであたしに対するあてこすりみたいだわ、それじゃ。子供が六つですって? 冗談じゃないわ。まるで騙《だま》されたみたいな気がする」 「騙すなんて人聞きの悪いこと言うなよ、今更」  西沢はきつく眉《まゆ》を寄せた。 「でもそうなんでしょう? その女のひととあたしと、同時進行でつきあっていたんじゃないの?」 「ちがうよ」  とうんざりしたように西沢は言った。「しかし、もういいじゃないか、大昔のことだぜ。今頃になって蒸し返すなんて、実際驚きだよ。そっちだって結構幸せにやっているみたいじゃないか。ご亭主は丸紅のエリートらしいし、君は君で二台目の車を買うために働いているというしさ」 「買ったわよ、もう、車」  反対側の歩道に落ちる青いネオンサインをみつめながら、路子が言った。 「ふぅん、そう。何?」 「何が?」 「車の種類だよ」 「あ、車種ね。ミニ。オースチン・ミニ」  ネオンサインが青から真紅にパッと変わり、濡《ぬ》れた歩道に血が滲《にじ》んだみたいになった。 「色は真赤なの」 「あれ小さいけど、内部は結構広いんだよな。不思議な車だよね」 「小まわりきくから」 「そうそう」 「遠乗りには向いてないけどね」 「遠乗りは彼ので行けばいいさ」 「ホンダなの。アコード」 「ほんと」  彼女は彼の顔をチラリと見て、すぐに眼を逸《そ》らせた。 「上の子って、男の子?」 「いや、娘」 「名前、なんてつけたの?」 「トモ」 「トモ? どういう字」 「友だちのトモ」 「いい名前じゃない」 「まあね」 「子供って、可愛《かわい》いものなの?」 「理屈抜きに可愛いものだよ。子供、作らないの?」 「というわけでもないけど。子供って、しばられるじゃない」 「今流行のDINKSやってるんだ。ダブルインカム・ノーキッズ。格好いいんだ、君」  西沢はそう言って伝票に手を伸ばした。 「急ぐの?」  咄嗟《とつさ》に路子が訊《き》いた。「急いで帰らなくちゃいけない?」 「どうして?」 「久しぶりに逢《あ》ったんだもの。もう少し話したいわ。よかったら軽く食事でもしない?」 「食事は家でするって言って来たから」  と、彼は煮え切らないように答えた。 「じゃ一杯つきあってよ。一杯飲んで帰ったって、奥さん怒らないでしょう」 「それはまあいいけど……。君の方は?」 「全然平気よ」 「一応夕食の用意みたいなことするんだろう?」 「そんなこと、どうでもいいじゃないの。あなたに関係ないんだから」  急に苛立《いらだ》ちをつのらせて、路子が言った。 「ひとの結婚生活のことに、あれこれ首突っこまないでよ」 「別に首突っこんでやしないよ」  西沢は面白くなさそうに言って伝票を丸めた。「第一、興味もないよ」 「じゃなんで訊くのよ、夕食に何を食べるかなんて」 「そんなこと聞いてやしないよ」 「わかってるわよ、あなた疑ってるんでしょ?」 「疑う?」 「そうよ。顔に描いてあるわよ」  そう言われて、西沢は思わず自分の顔を手でこすり上げた。 「あなた、疑ってるわ。あたしが嘘《うそ》ついてるって」 「勝手に妙な解釈をするねぇ」 「わかるもの。オースチン・ミニも嘘。結婚しているというのも嘘。そう思ってるんでしょ?」 「全然! そんなこと考えもしないよ」 「いいじゃないの、本当のこと言いなさいよ。でも何であたしがそんなことで嘘つかなければならないのよ? そこのとこ、教えてよ?」 「冗談じゃないよ。俺《おれ》の方こそ、教えて欲しいよ」 「何を?」 「だからさ。そんな変な言いがかりをつけられる理由だよ。ほんとのこと言って俺、おたくが結婚していようと、していまいと、実にどうでもいいんだよ、ほんと、関係ないよ」 「嘘ばっかり。気にしてたわよ。あたしがあなたと別れて一年以内に別の男と結婚しちゃったって言った時、すごく傷ついた顔していたわよ」 「俺が?」  今にも笑い出しそうに西沢が言った。「傷つきゃしないよ、そんなこと。むしろほっとしたんだぜ、君のために、良かったと思ってるよ。俺ばっかり結婚して子供がいるんじゃ、やっぱり多少は後ろめたいしさ」 「ほんと?」 「そりゃそうだよ」  路子の眼が妙な具合に光った。 「ほっとしたって言ったわね、あたしが結婚して……?」 「うん、言ったよ。ほんとうにそうだもの」 「そんなに簡単にほっとさせてあげるわけにはいかないのよね」 「え?」 「ほっとしてなんて欲しくないのよね。ほっとなんて、させてあげないわよ」  西沢が腰を浮かせかけた。 「あたし、結婚してなんていないわよ。一度も結婚したことないの。あれからずっと一人」 「…………」 「ずっと一人だったわ、七年間。七年もよ。毎日毎日ずっと一人。同じ家に住んでるわ。父は四年前に亡くなったけど。電話番号も同じよ。覚えてるでしょ? 八五三の一六九〇。ねぇ、電話くれるって言ったじゃない?」 「え?」  西沢の顔が青ざめた。 「電話するって。待ってるのよ、あたし。きのうも会社から帰って、ずっと電話機みつめてたわ。シャワーも入らないで、ずっと待ってたのよ」  西沢はそわそわと立ち上がると言った。 「やっぱり俺、帰るよ、悪いけど」  すると路子の顔にひどく傷ついたような表情が浮かんだ。 「どうしても?」 「ああ、すまないけど。また」 「じゃいいわ。でも——」  と言って路子は期待するように微笑した。「電話くれる?」  西沢は後退《あとずさ》った。 「ねぇ、電話くれる?」 「ああ」  苦しまぎれに彼は言った。「電話するよ」  そして踵《きびす》を返した。 「待ってるわよ、電話の前で。忘れないでね」  と、その背中に路子が言った。  オープニング・パーティー  客席が大きく見える。幅もそうだが、それよりも奥行きが異様に深く、最後の方は暗い洞窟《どうくつ》のようだ。悪い兆候だ。  急にあたりに人の気配がし始めたかと思うと、舞台の照明がつき、楽屋で打ち合わせをしていた人々が、それぞれの部署に散らばっていく。  演出家が台本を片手に不機嫌な足取りでやって来ると、途中で抜けだしたりして、どういうつもりなのかと、西|澪子《れいこ》に詰問した。 「急に胃の調子がおかしくなったのよ」  と彼女は、舞台の中央あたりで照明が浮き上がらせている埃《ほこり》の円柱形の堆積《たいせき》をみつめながら答えた。薬を呑《の》んで痙攣《けいれん》が治まるのを待っていたのだが、たとえ治まってもあの楽屋の人いきれの中に戻っていく気はなかった。  この世界では何かというと集まって打ち合わせやら会議やらをしたがるが、そこから何かが生れはしない。 「君はあの席にいなければならなかった。なぜならば君の科白《せりふ》のいくつかに変更があったからだ」  一言ずつ噛《か》んで含めるように黒田が言った。 「今夜が本番なのよ。今更《いまさら》科白を変えたりしてもらいたくないわ」 「今夜が本番だからこそそうするんだよ。三幕の後半の君の長い喋《しやべ》り、あの部分は大幅に縮めることにした」 「でもあそこは、この芝居の山場なんだから——」  澪子は胸の前で交差した手で、寒そうに二の腕をさすりながら抗議しかけ、そして唐突に口を閉ざした。 「君のためだよ。人助けだと思えよ」と、演出家は皮肉な笑いを薄く唇の片端に浮かべた。 「あそこで一、二回必ずつっかえるし、順序が入れかわってしまう。昨日のリハーサルではほとんどしどろもどろだったじゃないか」 「今日は大丈夫よ。二度とまちがえないわ。むしろ今更変えられる方が困るわ」 「科白を覚えればそれでいいという問題ではないんだよ」  彼は今、演出家の立場で喋っているのだ、そう澪子は自分に言い聞かせようとした。私が一緒に暮らしている男としての発言ではないのだ、と。彼は元々そういう人間なのだ。芝居のことになれば、親だって全く他人のように扱う男なのだ。  けれども、彼女を見る彼の眼には、全く容赦がない。厳しい眼というのならわかる。容赦のない無慈悲な眼だ。愛情のひとかけらさえも見えない。  事実、愛情などひとしずくも残っていないのかもしれない。ねぇ、あたしのこともう全然愛してもいないの、と唐突に訊《き》いてみたい衝動と闘う。そうするかわりに彼女は、 「私にそんな口調で物を言わないで」  と、彼女もまた女優の声で冷ややかに呟《つぶや》く。彼はその言葉を完全に無視して台本を開き、問題の場面の頁を指で叩《たた》く。 「削るのはここと、ここだ」  彼女は見ようともしない。 「同じことをくりかえさせないでもらいたい。時間があまりないんだ。君だけでこの芝居が成立しているのでもない。もう一度だけ説明する——」 「私ももう一度だけ言うわ、私にそんな口調で喋らないで」  彼女はくるりと背を向けて立ち去ろうとする。何人かの共演者と視線が合う。黒田が腕を掴《つか》んで引き止める。強い力なので、そのひと引きで彼女は彼の方に再び向き直らされる。裏の方で釘《くぎ》を打ちつける音がしている。照明の方角でも誰かが何ごとか怒鳴っている。 「君を特別扱いするわけにはいかないし、僕はそういうことはしない人間だ」  黒田は押し殺した早口で言った。「そして僕の口調が君の耳にどう響こうとも、僕としては、他の共演者と同じ口調で喋っているつもりだ。それが気に入らないというのなら、君に我慢してもらうしかない」 「そういうふうに言うのなら、私は主役よ。それなりの敬意を払ってもらいたいわね」 「だったらそれらしい芝居をやることだな」  黒田はいっそう冷たくそう言った。  その冷たさは、彼女を無力にする。何もかもがどうでもいいような気持にさせられる。 「わかっていないのね。あなたなのよ、あなたが私にやる気を失くさせるのよ」  急に声が破綻《はたん》する。共演者及び関係者を意識した女優の声ではなく、一人の絶望した女の声で、澪子はそう言った。  黒田は何か耐え難いものを耐えるかのように、顎《あご》を引き、眼を閉じ口元を歪《ゆが》める。やがて、 「台本の話に戻っていいですか」  ことさら他人行儀に黒田が言った。澪子は崩れ落ちそうになる意志をふるい起こして、自分の台本を開く。そして彼が指し示す箇所を、彼が渡してくれた赤いサインペンで消していく。 「気が立っているのはわかるよ。初日があけるまでの辛抱だ」  ようやく、黒田は慰めの言葉を口にした。彼女はそれには答えず、硬い表情のままサインペンを彼に返すと、今度は本当に背を向けて歩き出した。 「ラスト・リハーサルに入ります」  演出助手が、黒田のサインを受けて、大声で言った。  リハーサルに入って、西澪子は自分に余裕のないのを感じた。最後のどたん場で科白《せりふ》を変えたり削ったりすることはままあることだ。脚本家によっては、本番の数日前まで、最後の幕が書き上がっていない、ということもある。  長丁場の舞台ならそれも仕方がないかもしれない。アメリカのように、ひとつの芝居が当れば、二年も三年ものロングランになるというのなら、初日《オープニング》は観客つきのリハーサルのようなものだ。  けれども日本では長くて一ヵ月。しかもそれは商業演劇の話だ。黒田の演出する芝居は、一週間。今回は四日間の公演しかやらない。やりたくとも、やれない。劇場はその期間しか彼らに場所を与えてくれない。  しかしどんなに悪条件が重なろうと、役者は科白を覚えなければならない。そんなことは駆け出しの人間だって承知している。芝居以前の問題なのだ。それがプロの条件でもある。  澪子は科白の変更を、彼女の脳細胞にインプットしなおす。前に入れておいたフィルムを取り出し、かわりのものと入れかえる。取り出したものをその場ですぐ忘れろという指令を脳に送る。たいていの場合、それで忘れられる。逆に挿入される新しい科白も、その部分にフィルムを差し込み、覚えるように命じれば、あとは頭の中のコンピューターが作動して、うまくいくものなのだ。  ところが今回は様子が違う。頭の中には灰色の霧がかかったようにもうろうとしている。彼女は逃げ出したいと思う。  リハーサルはすでに始まっている。彼女は出番のきっかけを下手の垂れ幕の陰で待ちながら不安のあまり、吐き気と闘う。  支えがいるのだと思う。誰にも愛されていないと思う。世の中にはたくさんの人間がいるのに、その誰一人、気にかけてくれていないと思う。  相手役の大野という役者は、舞台の中央で浮気相手の人妻役に向かって、気色《きしよく》の悪くなるような科白を並べたてている。いきなり濡《ぬ》れ場から始まる芝居なのだ。正確には、男と女がベッドの中で一戦交え終わったという想定のところから幕があく。  男は、上半身裸で、すでにジーンズをはいている。女の方はスリップ一枚でまだベッドの中だ。今時スリップなど着る女は少ないのに。しかもスリップの下にしっかりとブラジャーをつけている。その人妻役が、よく通るメゾソプラノの声で、科白《せりふ》を喋《しやべ》る。澪子は喉《のど》に啖《たん》がからむのを感じて、空咳《からせき》をした。暗い客席のほぼ中央に黒田の姿が見える。乗り出すような姿勢で、前の背もたれに両腕を置き、光る厳しい眼で舞台の一挙手一投足を見守っている。彼の視界の中に、すぐにも歩きだしていかなければならないのだ。あの無慈悲な、愛のひとかけらも残っていない眼に、今の自分がどう映るのかと思うと、足が萎《な》える。逃げ出してしまいたいと再び思う。支えがいるのだと。愛されているという実感がつかみたい。  舞台の上のアクションが完全に止まっている。二人の男女の俳優の顔がこちらを向いている。彼らの眼と眼が合うと、澪子は本能的に後ずさり、幕の陰に身を隠した。心臓が冷たくなり、自分がパニックなのがわかる。  出て行かなければならないのだ。舞台では二人が待っている。自分が出て行かなければ芝居は続けられないのだ。  ふと人の気配がした。誰かが彼女の肩に手を置いた。服を通してその手の温かさが直接、彼女の肩に感じられる。その手が背中に降りていき、そっと彼女を幕の間から押し出した。「だめなのよ」と彼女は抵抗しながら言った。「出だしの科白が思い出せないし、他の科白もみんな消えちゃったのよ」 「深呼吸を三回して」  と男が言った。作業衣を着ている。まだとても若い男だ。片手に小道具のスタンドを持っている。ジーンズの膝《ひざ》のあたりが破けている。言われるままに澪子は深く息を吸いこんだ。  けれども吸ったのと同じ量だけ吐きだせないので三回吸いこむといっそう息苦しさがつのった。彼女は胸を押さえてあえいだ。  何をしているんだ、という演出家の苛立《いらだ》った声が、客席の中央あたりから飛んでくる。舞台の二人の役者が顔を見合わせ、ひそひそと私語を交わす。 「もう一度」と小道具の若者が澪子に言った。「僕と一緒に」  男にテンポを合わせて、三度、四度、五度と息を吸ったり吐いたりする。違うのだ。私に必要なのは深呼吸なんかじゃない。彼女は唐突に男に向かって言う。 「悪いけど、抱きしめてくれる?」  男は一瞬、まばたきをする。彼女をみつめる。無言のうちに彼は全てを了解する。了解されたのが澪子にはわかる。手にしたスタンドを足元にそっと降ろすと、男は両腕の中に彼女を抱えこむ。 「もっと強く。抱きしめて」  作業衣の下のTシャツを通して、若者の肉体の熱さが彼女に伝わる。相手の胸の鼓動も。それがとても穏やかに規則正しく打っているのがわかる。彼女の鼓動が徐々にそれに同調していく。舞台上の二人が驚いたように、無防備に、その抱擁《ほうよう》に見惚《みと》れている。  ようやく澪子は抱擁を解き、若者から離れる。 「ありがとう」  若者が微《かす》かに微笑する。薄暗い中で白い歯の一部が清潔な光を放つ。彼女は舞台に向かうために、ブラウスを引っぱって整える。それからもう一度若者を振り返る。若者がうなずく。  彼は了解したのだ、と彼女はもう一度思う。支えを得たという確信が、津波のように彼女を襲った。  ——まあ驚いた。どうやら愛の現場に飛びこんでしまったようだわね——  最初の科白を喋《しやべ》りながら、彼女はつかつかと舞台に出て行く。芝居が始まった。  一幕を終えて彼女はゆっくりと下手に戻っていく。 「続けてすぐ二幕に行く」と演出家の声が飛ぶ。大道具や小道具係が入れかわりに舞台に散る。 「ずっと見ていてくれたのね」  と彼女は若者に向かって囁《ささや》きかける。  彼は手にしたスタンドから、舞台に視線を移す。仕事を気にしているのがわかる。 「それを置いたら、またここに戻って来てくれるわね」 「一幕は完璧《かんぺき》でしたよ。もう大丈夫ですよ」  再び不安が彼女を襲う。裏切られたような気分だ。 「ここにいてくれなくちゃだめなのよ」  子供のように足踏みをして彼女が言った。  芝居の間だけでいいから、私に、愛されているのだと思わせて。見守られているのだと信じさせて。口には出さずに、彼女は胸の中で哀願した。  若者はそれを命令のように聞いたのかもしれない。「また戻ってきますよ」そしてスタンドを置きに舞台の方へ歩きだす。その背にわずかな困惑が滲《にじ》んでいる。  舞台の用意が整うと、演出家の合図の声が飛んだ。衣装を変えた出演者たちが所定の位置につくために舞台に向かっていく。 「煙草ある?」  戻ってきた若者に彼女が訊《き》いた。 「ハイライトだけど、かまいませんか」  彼女は黙ってうなずく。若者は胸のポケットからそれを取り出し、彼女に差し出した。 「火をつけてくれる?」  わずかに躊躇《ちゆうちよ》し、一本口にくわえると百円ライターで火をつけ、彼はそれを澪子に渡した。彼女は礼を言い、ゆっくりと吸いこんだ。二口吸って若者に返した。 「行くわ」と彼女が言った。彼が微《かす》かにうなずいた。二、三歩行きかけて、彼女は駆け戻ってくる。若者の胸に頭を押しつけ自分の方から抱擁しておいて、改めて舞台に向かった。  二幕が終わって戻ると、男はいなかった。彼女はあえて捜さなかった。三幕目のリハーサルに続いて入った。  見捨てられたような惨めな気持ちだった。頭の中を霧が満たし始めるのがわかる。半分上の空でリハーサルが進んでいく。 「そっちじゃないだろう。反対!」  突然黒田の声で彼女は飛び上がる。弾《はじ》かれたように逆方向に向けて数歩場所を移動した。相手役の男が正しい立ち位置を彼女に示した。  その場に立ちつくしたきり、彼女は一言も喋《しやべ》れない。 「一体どうしたんだ。黙っていちゃ芝居にならない!」  どこかはるか遠くの方から、演出家が怒鳴っているのがわかる。 「君はいつもそこのところでドジるじゃないか。いつも同じまちがいを犯すじゃないか」  相手役が彼女の科白《せりふ》を教えてくれる。  ——あの女のどこがいいの。あの女と比べてあたしの何が劣るの——  機械的に澪子はその言葉を口にする。そしてまた絶句。  ——あたしより若いからなの、アレが上手だからなの、あそこの締り具合がいいからなの、答えてよ——さあというように、相手役が彼女の顔をみつめる。彼女はその科白をくりかえす。演出家が立ち上がって走ってくると、舞台に駆け上がる。 「一体今のは何てざまなんだ。本番でもその調子でやるつもりなのか」 「ごめんなさい、他のことを考えていたの。あの子を呼んできて」殴られでもするのを恐れるかのように、腕で自分の顔をかばいながら、彼女が言った。 「他のことなら、舞台の後で考えてくれ。あの子って誰だ」 「小道具の子よ」  と彼女は血走った眼であたりを見廻す。 「あの子がいなくては演《や》れそうもないわ。あの子が唯一の希望なの」  クモの糸ほどに細い命綱だ。そんな気がした。 「この芝居と小道具係の小僧とどういう関係があるんだ。バカバカしい」 「あの子にあそこに立って、見守っていてもらいたいの。それだけなの」  ライトで眼がくらくらしていた。誰のことを言っているんだ、と演出家が、側の人間に訊いている。大内っていう男じゃないかな、アルバイトの。 「そいつを捜して呼んでやれ」  誰かが奥に消え、少しして小道具係を連れて戻って来る。若者は囚人のように引き立てられて姿を現した。  澪子は彼に向かって駆け寄る。途中でその足が凍りつく。  若者は人々に見られながら、困惑し、茫然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる。 「彼女のいいようにしてやってくれ。君がいないと芝居ができないらしいんだ。頼むよ」  と黒田が声をかけた。  澪子は若者をみつめた。彼は視線を合わせようとはしない。恥ずかしさのために両耳が赤くなっている。 「大丈夫よ」  と澪子は若者に向かって言った。 「誰もあなたをどうこうしようっていうわけじゃないのよ」  後ずさる若者に向かってそっと手を差し伸べながら彼女が続けた。 「恥ずかしい思いをさせてしまって悪かったわ」  彼は怯《おび》えていた。誰とも視線を合わせられないでいる。死ぬほど恥ずかしがっている。彼はもう彼女の支えにはならない。一瞬で彼女は自分の置かれた状況を知った。支えはなしだ。頼りになるのは自分なのだ。現実感がようやく彼女に戻った。  死ぬほど怯えている青年を見ると逆に彼女の中に力が湧《わ》いてきた。 「もういいわ、行ってちょうだい」  と彼女は優しく言い、若者の背中を上手の方にそっと押しやった。 「みなさん、すみません」  と彼女は言った。「今のところをもう一度、おねがいします」 「本番のつもりでやってくれよ」  黒田が彼女に言い置いて舞台から降りた。リハーサルが再開された。  ——あの女のどこがいいの? あの女と比べてあたしの何が劣るの? あたしより若いからなの? アレが上手だからなの? あそこの締り具合がいいからなの? 答えなさいよ。答えられないの? なぜ答えられないの?——  ——答えられないのは——と相手役がそれに応じる。——今言ったことが全て事実だからさ——。  彼女は舞台の上で、そこが刺されでもしたように胸を押さえてあえいだ。だが大丈夫だ、続けられる。  ——愛していないと言ってよ、もう愛は一滴も残っていないのだって——  ——お望みなら——と続けようとした相手役を無視して、澪子はりんとした声で続けた。  ——あなたが帰って来ない夜に、彼はもう私を愛していないのだろうかと自問することに、飽き飽きしているのよ——相手役の顔をみつめる。黒田が客席で立ち上がるのが見える。 「そんな科白《せりふ》は台本にないぞ」と彼が下から怒鳴る。「真面目《まじめ》にやってくれ」 「私は真面目よ。今までのどんな時よりも真面目——芝居を続けましょう」  ——お望みなら——  と相手役がやり直す。  ——もちろん望んでいるわ。私は望んでいる。望んでいる。あなたを待ちながら朝を迎えることにうんざりしているの。あたしは一晩ぐっすり熟睡したいの。あなたがもう永久に戻って来ないとわかれば、私は平和を取り戻せる。私はもう何ヵ月もろくに眠っていないのよ—— 「科白を勝手に変えないで下さい」  と相手役が困惑しきった表情で言った。 「でも、この方が自然だと思わない? 私は思うわ。あなたの足元に身を投げだして、考え直してくれと涙ながらに哀願する女なんて、糞《くそ》くらえだわよ」  黒田が舞台のすぐ下から澪子をにらみつけて怒鳴る。 「君はこの芝居をやるのか、やらないのか」 「それはあなた次第よ」  と彼女は腰に両手を当てて反《そ》り返った。 「僕次第だと? どういうことだ」  黒田のこめかみの上でのたうつ血管がライトに浮き上がった。かつてそののたうつ血管を、震え上がるほど恐れたものだった。かつて……。ついさっきまで。彼女は顎《あご》を上げ、背中を伸ばした。 「私に芝居を続けさせ、今夜の初日の幕を開けたいのだったら——」  立場が逆転するのを感じた。彼女はもう何も恐《こわ》くなかった。愛されたいと願うことをやめれば、彼女を脅かすものなどないのだとわかる。 「——初日の幕を開けたいのだったら」と彼女は続けた。「あなたのその、おれはおまえよりも偉い人間なんだっていう態度を、すぐにでも変えることね。もう通用しないのよ、そういうのは。なぜなら、私はもうあなたを、必要としていないから」  あなたを必要としていないから、もう愛していない。一滴の愛も残っていない。解放感が体中にみなぎるのが感じられた。  沈黙があたりに流れた。誰も彼もが一瞬呼吸さえ止め、凍りついたように静止した。澪子は眼の隅に、小道具係の若者の姿を捉《とら》えた。まだほんの少年でおどおどしたあんな子が、一瞬でも彼女の支えの全てでありえたことが、信じられなかった。彼女は彼に向かって笑いかけた。  黒田が彼女を見上げて言った。 「それだけかね、君の演説は?」 「ええ、それだけ」 「芝居は続けるのか」 「続けて欲しい?」  高々と片方の眉《まゆ》を上げて、彼女は舞台の上から演出家を見おろした。演出家は屈辱で青ざめたが、ゆっくりとうなずいた。 「続けてもらいたい」  不意にあたりの緊張が解けるのが感じられた。黒田はくるりと背をむけて、客席に戻っていった。澪子は相手役に向き直り、両手を広げ駆け寄ると、その膝《ひざ》にすがりついた。  ——今のは嘘《うそ》よ。でたらめだわ。心にもないことを言ってしまったわ。あなたと別れられない。捨てられたら生きてはいけない。今言ったことは全て忘れてちょうだい。  澪子の眼から涙がこぼれ出て、相手役の膝を濡《ぬ》らした。  |紅 い 唇《レッド・リツプス》  歩道も車道も閑散としている。  日中、あんなにもたくさんの人間が右往左往していた同じ通りとは思えない。  実際|九竜《カウローン》の裏通りというのは六叉路《ろくさろ》とか八叉路というのがあって、四方八方から来る人、あるいは散っていく人たちで、文字どおり人間が右往左往しているという表現が、ぴったりなのである。  おまけに人間の数が多い。人口密度が高い上に、観光客が世界中から押しかける。  時刻は真夜中の零時前。繁華街のネオンサインの半分は消えている。だが、それでも異国的なけばけばしさがあると、徹は思った。  彼はもう一度メモに書かれた走り書きのアドレスを眺めた。  メモにアドレスを走り書きしたのは、スターフェリーの中で、偶然横に立っていた女だった。古い表現だが、『東洋の真珠』というのにぴったりの若い女だった。 「香港のひとですか?」  と訊《き》くと、そうだというようにうなずいた。 「名前は?」 「どうして私の名を訊くの?」  切れ長の眼の隅から斜めの視線で、女が逆に訊き返した。どうしてと訊かれると、徹は返答につまった。 「ただ、訊きたかったのさ」 「香港中の女の名前を、訊いて回っているの?」  斜めの視線によく似合う、冷ややかな声で女は言った。 「香港の女はみんなそんなふうに、高飛車に喋《しやべ》るものなの?」  今度は女が黙った。それからふと気が変わったように、 「スージーよ」と言った。 「スージー?」 「そうよ」 「スージー・|WON《ウオン》のスージー?」  とっさに昔懐かしい名前が徹の口をついて出た。 「それが私の名前よ」 「スージー・ウォンが?」 「ええ」 「あのスージー・ウォンと同姓同名だ。知っている? 大昔の女優だよ」 「知っているわ」  スージーは、遠い眼をして、次第に近づきつつある対岸の香港島を眺めた。 「スージー。時間ある?」  このまま別れたくないという気持が、徹の心に強く湧《わ》いた。 「どうして?」 「食事でもどう?」 「私と話したい?」 「ぜひ」  スージーは、まるで男が女の品定めをする時のような眼つきで徹の全身を眺めた。スターフェリーはほどなく香港島の埠頭《ふとう》に接岸しようと、スピードをゆるめていた。 「いいわ」  と彼女は承諾した。真紅に塗られた唇が、その時初めて、柔らかい弓なりのカーブを描くのを、徹はうっとりとする思いで見つめた。  それから彼女は素早くメモを取りだすと、アドレスを走り書きして、徹に渡した。 「今夜零時に、そこに来て」  メモにはハノイ通りと番地があり『RED LIPS』とある。 「レッド・リップス?」  なぜかその名にドキリとしながら、徹はスージーの眼ではなく、思わず彼女の真紅の唇をみつめた。  確か、スージー・ウォンの映画の中に出てきたバーの名が『|紅 い 唇《レツド・リツプス》』ではなかったろうか。 「ここで、働いているの?」  ますます胸を妖《あや》しくときめかせながら、徹は重ねて訊いた。 「いつもいるわ」  スージーはそれだけ言うと、接岸したフェリーから足早に降り立ち、人混《ひとご》みにまぎれて姿を消した。  彼女の姿が消えてしまうと、徹は一瞬今のは現実に起こったことなのだろうか、と、思わず自分の頬《ほお》を強くこすり上げた。スージー・ウォンと名乗った女の妖しげな美しさと共に、真紅の唇が、鮮やかに脳裏に刻みつけられている。現実なのだ。今夜、スージーにもう一度|逢《あ》えるのだ。徹の心が躍った。  ようやく探りあてた路地の奥を覗《のぞ》きこんで、徹は眉《まゆ》を寄せた。つきあたりが袋小路になっていて薄暗い。一見して、それとわかる年増《としま》の娼婦《しようふ》が、おそろしくヒールの高い靴をはいて、たたずんでいる。  袋小路の手前に、うらぶれたネオンサインが『RED LIPS』の文字を赤く浮き上がらせている。徹は路地に入り、厚化粧の娼婦に眺められながら、奥へ進んだ。  店の中は暗く、入ったとたんアンモニア臭が鼻を打った。正面のカウンターに、すさんだ感じのホステスが六人たむろしている。ボックス席は赤いビニールシート。おそろしく不潔で、安っぽく、それでいて不思議なノスタルジーを誘う。  徹の姿を認めると、ボックス席の四、五人の女たちがいっせいに立ち上がって彼を迎え入れた。近くで見るとどの顔も、どうひいき目に見ても六十代である。ぎょっとして徹は後退《あとずさ》った。 「レッド・リップスってここのことかい」  と彼は恐る恐る訊いた。 「そうだよ、ここがレッド・リップスさ」  老いたホステスが嗄《しやが》れ声で答えた。 「何を飲むね?」  まだ坐《すわ》ってもいないのだった。 「女性を探しているんだが」 「女なら、このとおり、そろっている」  老女がニヤリと笑った。前歯が欠けているので、口の中が空洞に見える。 「しかし、若い女なんだ」 「ここにいるのも、かつては若かった女たちさ」  全員がゲラゲラと笑った。臆面《おくめん》もない卑猥《ひわい》な笑い声だった。 「名前は、スージーというんだが」  すると嗄れ声の老女が一歩進み出た。 「スージーはわたしだよ」 「いや。その、スージー・ウォンという名の若い女なんだけど、知らないかな」 「わたしがウォンさ。スージー・ウォン」 「まさか」  と徹は冷たい汗を掌にじっとりとかいた。  逃げ出そうにも老女たちが徹を取り囲んでいる。厚化粧の匂《にお》いと、安香水の香りとで彼はめまいを覚えた。 「僕が探しているのは、東洋の真珠みたいな若い女で、切れ長の眼と、形の良い真紅の唇をした美しい女だ」  すると老いたスージー・ウォンがこう言った。 「わたしも若い頃、切れ長の眼と、真紅の唇で東洋の真珠と呼ばれたものさ」  老女たちはますます徹に近づき、彼をぴったりと取り囲んだ。  金曜日の女  七月の宵《よい》の口。しかも金曜日だ。その週の仕事を終えた老若男女が、街に溢《あふ》れている。誰も彼もが、お楽しみはこれからだ、といった顔つきで、あまり急ぐふうでもなくそぞろ歩いている。  しかも、くどいようだが季節は七月で、まだ宵の口だ。夜の黒い粒子と、昼の蒼白《あおじろ》い粒子とが微妙に混じりあい、次第に夜の粒子が多くなるにつれて、歩道に落ちるネオンサインの色がぬれぬれと濃くなっていく時刻。人恋しく、郷愁を誘う時間帯だ。  信じられないことに、西木|明《あきら》は今夜にかぎりフリーだった。全くのフリー。夜中までずっとフリーの一人ぼっち。  彼のような独身のプレイボーイにとって、金曜の夜、飲む相手もいなければ、女とのデートのアポイントメントが入っていない、なんてことは、金輪際ありえないことだった。  大体、金曜の夜、西木明と過ごしたいと望む女は数知れないわけだし、放っておいたってむこうから誘いがかかってくる。西木は女の交通整理をするのがやっとで、一晩に二、三人の女をかけもちなどという金曜の夜も皆無ではない。  女が鼻につく週だってあるわけだから、そういう時は悪友に招集をかければ、酒の相手にこと欠くこともまずはない。  それがどうしたわけか、今週はどの女もうんともすんとも言って来なかった。金曜の四時頃までは、まあ誰かが何とか言ってくるだろうと、呑気《のんき》にしていたのだ。  なんとなくヤバそうだと気づいて西木はやっと自分の方から電話をかけ始めた。Sex Friend の略の「S」のところを開いて、一番|逢《あ》いたい女からダイヤルを回し始めた。留守だった。  二番目に逢いたい女は人妻だったので、今の今夜では都合がつく道理もないと、はなから諦《あきら》めた。三番目の女は留守番電話が答えた。 「——戻り次第こちらからご連絡します。お名前とお電話番号をこのあとの信号音の後、どうぞ——」西木は物も言わずに受話器を置いた。  あとは上から順番にダイヤルを回した。全部で十四人の女の名が並んでいるが、そのうち六人ばかりは最近どちらからともなく没交渉。アヴェイラブルなのは、だから八人だった。そのうち三人がすでに駄目である。他の三人と連絡がついたが、すでに先約があると断られた。残り二人は何の応答もない。  西木としてはめずらしく慌てた。少々オーバーな表現だが、背骨に沿って冷たい汗が一滴滑り落ちていくような気分だった。この十年ばかり、盲腸で入院した一週間を除いて、女気のない金曜の夜など、一度としてなかったのだ。その盲腸の時も、ガールフレンドの一人が、消灯の直前まで、病室で話をして行った。  西木はあせって、飲み友だち、テニス仲間、ジャン友などに片っぱしから電話を入れてみたが、誰も彼もが先約があったり、帰ってしまったり、仕事先から直帰するとかで、連絡がつかなかったのだった。  そんなわけで、西木は誰にともなく腹を立てながら、会社の退《ひ》けた後、ふらりと六本木へと足をむけたのだった。  なじみのカフェバーへ顔を出せば、知った顔くらいいるだろうとは思ったが、しかしそういう場所へ、一人で来ている妙齢のいい女など、最初から全く期待できないことはわかっていた。妙齢のいい女が、金曜の夜、一人でバーなどへ来るわけはないのだ。  階段を下りて左へむかうと、つき当たりがカフェ・カサブランカだ。黒いドアを引いて入ると真正面にグランドピアノがあり、その周囲がカウンターになっている。  グランドピアノをぐるり囲むように客たちがぽつり、ぽつりと座っている。  まだ本格的に飲みだすには時間が早いせいで、客の入りは今ひとつ、こういう店は夜の十一時過ぎに込みだす。 「あらッ」という女の声に、西木はふりむいた。レジの横で後ろむきに電話をかけていた女が、顔に謎《なぞ》めいた微笑を浮かべている。 「やあ」と西木はとたんに元気な声で応じた。 「どうしたの、こんな時間に」と女は回しかけていたダイヤルを途中にして、受話器を戻しながら、笑いを含んだ声で言った。「一人? めずらしいのね。それとも待ち合わせ?」  あちこちで、よく顔を合わせる女だった。よほど行動半径が似ているのだろう、月に一、二度はどこかで見かけている。ホテルのバーとか、深夜のイタリアン・レストランとか、がらりと趣《おもむき》の変わったところでは築地《つきじ》の寿司屋《すしや》でも見かけた。このピアノ・バーもそのうちのひとつだった。  見かければお互い旧知の仲のように、「やあやあ」などと言う。親し気に手をヒラヒラと振って「お楽しみね」などと言いあう。ウインクをして、口の動きだけで、「しっかり」と言ったり言われたり。  だが、それだけだ。お互いのパートナーに紹介しあうことはまずない。大体二人ともその都度パートナーが違っている。「やあやあ」と言いあってはいるが、相手の素性も名前も知らない。お互いをお互いに遊び人だと信じて疑わない。プレイボーイとプレイガールは魅《ひ》きあうことはまずない。西木もこれまでのところ一度もその女に食指を動かしたこともない。興味の外にある、というか、一種の同業者意識というか。  よく見れば、すごいような美人である。よく見なくたって美人だが、スタイルも最高だ。日本人にはめずらしく腰高で、膝《ひざ》から下が外人のように長く、ふくらはぎがうっとりするような流線型を描いている。  いつもは、いかにも金のありそうで、男っぷりもスタイルもいい四十代の男と一緒なので、初めっから諦《あきら》めていた節もあった。西木はまだ三十をいくつか出ただけの若造だったし、給料の他に、親から受けついだ莫大《ばくだい》な遺産もなければ、第一小金のある親などいない身だ。  もっとも男っぷりとスタイルには自信があった。色浅黒く、スリムで、トール。週に一度ジムに通ってサンドバッグを打っているから、上半身は一応逆三角形に近い形を保っている。しかも着痩《きや》せするタイプだ。たいていの男が着ると、軽率に見えるか、ニヤケ男に見えるような流行の服装も、西木はくつろいだ感じに着こなしてしまう。  そのまま年をとれば、貧相な元美男子という名の老人になるのが他人の眼にはかなり明らかだが、当の本人は今のところ気づいていない。それどころか、自分がちょっと年をくった少年であると、いい気になっている。  そう彼に言ったのは、例の人妻であった。西木より十二歳年上の女で、若い頃フランソワーズ・サガンにかぶれていたらしい。その年上の人妻がある密会の夜、西木の太股《ふともも》に手を置いて囁《ささや》いたのだ。 「あなたって、ちょっと年をくった少年みたいね」と。 「ご覧の通り、今夜は一人」と、西木は電話のそばまで行って女に言った。 「どういうわけでしょうね」と女は長い髪を指先でかき上げながら、軽く首を傾けた。 「きまっているよ。あなたに逢うため」 「調子のいいこと。わたしが一人だとはかぎらないわよ」女は下からすくい上げるように西木を見上げた。切れ長のセクシーな眼だった。 「もちろん、あなたは一人さ」と西木は自信あり気に言った。 「どうしてそう思うの?」 「ざっと見回したところ、つりあいそうな男はいないもの」 「でも、後から来るかもしれないわ」 「もう来ているよ」と西木は親指で自分自身の胸を指して、ニヤリと笑った。 「自惚《うぬぼ》れてるわ」と女は、グランドピアノの方向に歩きだしながら言った。 「あれ弾《ひ》いてくれる?」と、彼女はピアニストに話しかけた。「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」  ピアニストがうなずく。指が鍵盤《けんばん》の上を滑る。 「思い出の曲?」と女の横のスツールに滑りこみながら、西木が訊《き》いた。 「ええ——」女は急にしんみりと呟《つぶや》いた。 「よほど大事な思い出らしい」 「もちろん、そう」 「聞かせてくれる? それとも古傷には触れたくない?」 「もう過ぎたことよ。傷口はふさがったわ。ディックっていう男だったの」 「アメリカ人?」  女がうなずく。 「愛してたんだ?」 「それは情熱的に、狂おしく」 「なんだか嫉《や》けるね」 「そんな必要ないわ」 「完全に別れたの?」 「彼——死んだの」 「そう——。いろいろ訊いて悪かったね。他の話をしようか?」 「いいわ」と女は答えた。胸元のゆうに一カラット半はあるブリリアント・カットのダイヤがキラリと光った。「このダイヤのこと訊きたい? どうしてわたしが手に入れたか?」 「知りたいね」西木はつとめて陽気になった。 「私は十四歳だったわ。まだ胸も平らだった。パリで外交官をしている両親を訪ねていく飛行機のファーストクラスのトイレの中で、男にいたずらされたの。パリまでの十六時間に全部で八回もよ。訴えるって言ったら、鹿革《しかがわ》の袋からこれを一つぶつまみだして、私の掌に握らせたの」 「へぇ、驚いたな。ダイヤひとつにも悲劇的な歴史があるもんだな」と西木は溜息《ためいき》をついた。 「格別悲劇というわけでもないわよ」 「もっとひどいこともあった?」 「ディックの死に比べればね」 「じゃ君のディックに乾杯」西木はグラスをあげた。 「今度はあなたの番。あなたのことを話して」 「僕の何を?」 「何でも。たとえば女たちのこと」 「君のディックに対抗できるような女は、いないよ」 「こないだ、イタリアン・レストランで一緒だった女《ひと》は?」 「どんな女だった?」西木は記憶をたぐりよせようと眼を細めた。 「かなり年上の女《ひと》みたいだったけど」 「思いだした」西木はニヤリと笑った。 「年上の女の魅力って何?」 「一口で言うとね」と西木は言った。「英語の諺《ことわざ》にこんなのがあるの知っている? �老いた雌鶏《めんどり》の骨はいいスープを作る�ってやつ」 「ひどいのね」 「最上のほめ言葉だよ」 「そんなふうには聞こえないけど」 「味はえもいえず極上っていう意味だよ。甘美にして退廃的で。つつましやかに見える皮膚の一枚下では、淫乱《いんらん》きわまりなくてね。最高だね」 「どういう出逢《であ》い? 人妻なんでしょう?」 「ファーストクラスのトイレの中とはいかないけどね、似たようなものさ」 「————?」 「僕たちの場合はウイークデーのテニスクラブのね、男子用トイレの中」 「おやおや」 「ウイークデーのテニスクラブの昼日中《ひるひなか》ってのはね、男なんてほとんどいないからね」 「その代わり暇な人妻がわんさか。選《よ》りどりみどりってわけね」 「そんなところ」 「それで、その年上の人妻はテニスクラブの男子用トイレであなたを手に入れた代わりに、何をくれたの?」 「女から何かをもらうのは好きじゃないんでね」 「あら、気取ってる。だめよ、わたしの眼はごまかせないわ」女の視線が西木の首の金鎖にピタリとまった。 「それから、それも」と、カルチェの腕時計に視線を移した。西木は言いあてられて、苦笑した。 「要するに、同じ穴の狢《むじな》ってわけだ」 「らしいわね」と女は少し冷ややかに顔をひきしめた。ちょうどピアノの演奏が終わったところだった。店内にパラパラと拍手の音が起こった。 「似たもの同士、今夜つきあわない?」西木は女に軽く肩を寄せた。「きっと楽しめると思うけどな」  女は例の下からすくい上げるようなまなざしで、探るように西木をみつめた。 「どこで? そこのトイレの中で?」 「君がよければ、僕はかまわないけどね」 「冗談でしょ」 「こっちも冗談」西木は煙草にゆっくりと火をつけ、煙を深々と吐きだしてから続けた。 「君の部屋? それとも僕のところにする?」 「あなたの部屋には何があるの?」 「ベッドとブランデー」 「悪くないけど」 「君の部屋には、もっといいものがあるの?」 「似たようなものね。ベッドとお酒と、バラの花と、ああそれからディックの写真」 「ことの最中、ディックは僕たちの行動を一部始終見ているわけ?」 「もちろんディックの写真は伏せるわよ」  事の運びは上々。西木は胸の内でニヤリとほくそ笑んだ。 「じゃきまりだ。君の部屋に行こう」  西木はピアノの上の伝票をヒョイと取り上げた。その拍子だった。西木ははっとして女の横顔を見た。嫌な胸騒ぎがした。ディックと言ったのは——もしや。 「君の名前をまだ知らないけど」 「あら、そうだった?」女はケロリとして陽気に答えた。「ローレンよ、ローレン・バコール」 「じゃディックってのは?」 「わたしの夫。本当はハンフリー・ボガートっていうのよ。愛称はボギー。でもわたしは『カサブランカ』っていう映画のディックの役が好きなの。だから、ディックって呼んでいるの。ところであなた、ちょっぴりディックに似ているわよ」  一瞬女から狂気のようなものが漂いだした。西木は救いを求めるように店内を見回した。バーテンダーと視線があった。  バーテンダーの手が動いた。彼は人さし指を頭の横にもってくると、クルクルと回してみせた。西木は思わず生唾《なまつば》をのみこんだ。 「どうしたの——ディック?」と女の腕が西木の腕にからみついた。 「あのね、君」喉《のど》がカラカラだった。 「ローレンと呼んで」女は妖艶《ようえん》に微笑した。 「さっきの話だけど——飛行機のファーストクラスのトイレの中でのこと」 「?」 「八回もいたずらされた代償が、そのダイヤだって話さ」 「あらッ」と女は眼を丸くした。「違うわよ、クイーン・エリザベスの特等船室の中よ。それにトイレじゃないわ。バスルーム。大理石のバスタブの中でいたずらされたのよ」 「さっきはそう言わなかった」西木は女の腕を放そうと試みたが成功しなかった。 「あなたって、ユーモアがあるのね」  今やがっちりと西木の腕を取って、女はヒルのように彼に張りついているのだった。西木は冷たい汗が額に浮かぶのを感じた。とんだ女につかまってしまったものだ。七月の金曜の夜のことだった。  同 僚 「麻衣ちゃん、電話」  と京子が片眼をつぶって受話器を差し出した。 「ありがと」  ぱっと胸の中が晴れ上がるような気分で麻衣はそれを取って耳にあてた。 「はい、麻衣です」  つい甘い声になる。 「約束破っちゃだめだよ」  といきなり福本四郎の声が言った。 「え? 何のこと?」 「そっちから連絡取らない約束だろう?」  福本の声は不機嫌なままだ。 「あら私、電話してません」  怪訝《けげん》に思って麻衣は呟《つぶや》いた。残暑の続く昼下りだった。相手はどこかの公衆電話からかけているのだろう。背後を走りぬける車の音や警笛《ホーン》の音が混っている。湿気た高温の空気に混るガソリンや近くの生ゴミのポリバケツから流れ出る悪臭などが、なぜか麻衣の鼻の奥に充満する。想像力が豊かなのも困りものだった。 「今、外から? 暑くて大変ね」  とだから、つい同情をした。 「当然だ。社内からこんな私用電話がかけられるか。女のところになんて」  福本は苦々しく言った。  こんな電話? 女のところになんて? そんな言い方をするのは初めてだ。麻衣はドキドキした。不安で胸がこんなにドキドキするのも初めてだった。 「ほんとうに、電話なんてこっちからしてませんから」 「へぇ。宮本麻衣っていう伝言メモがあったけどね。宮本麻衣って、おたくのことじゃないの?」 「おたくだなんて言い方、嫌いよ」  ますます傷ついて麻衣は言い返した。 「でも何かのまちがいよ。神かけてあなたの会社になんて電話していない」 「君も強情だな。認めたらいいじゃないか。素直に謝ればまだ可愛気《かわいげ》ってものがあるよ」 「だって認めないもの。絶対あたしじゃないもの」  麻衣は泣きたいような気分だった。 「じゃ、誰なんだ?」 「知らないわよ、そんなこと」 「誰が何のために、君の名前を使って電話して来たんだ?」 「だから知らないって。あたしの方こそ、その理由を知りたいくらいだわ」  ふと相手が黙った。 「嫌がらせのつもりなら……」  と福本が言った。 「そんなつもりないにきまってるでしょ。どうしたの? 急に変よ。いつものあなたと違う人みたい」 「違わないさ。僕だよ」 「わたしの言うこと、全然信じてないんだもの」 「当り前じゃないか。君の名で僕に電話をしてくる人間は、君しかいない」 「でも違う。本当のあたしならしない。社に電話をしない約束したんだから、最後までその約束守るつもりだったわ」 「つもりだった? じゃやっぱり最後に約束を破ったんだな」 「そういう意味じゃないっていうのに」  ついに腹が立って麻衣は大きな声を出してしまった。横で京子が脇腹《わきばら》を指で突いて、しいっと言った。社内の何人かが麻衣を見た。 「とにかく、絶対に困るんだ。若い女から電話などかかったら社内の評価はガタ落ちだからな」 「もうしないわよ」  と、苦しまぎれに麻衣はか細い悲鳴のような声で送話器の中に言ってしまった。自分のしたことでもないのにそれを認めるような言い方をしてしまったことで、口の中が苦く、無念でならなかった。  けれども相手は頭から麻衣の非を信じてものを言っているのだ。  否定すればするほど疑いが濃くなる気配でもあった。  否定しつづけるより、折れて認めてしまう方が、はるかに楽な場合があるのだ、ということを、麻衣は今日知った。 「やっぱりそうだ」  と、勝ち誇ったように福本が言った。 「最初からそう言えばいいんだ」  勝ち誇ったような男が、一瞬憎かった。だが彼の立場になってものを見れば、確かに若い女から電話などかかれば困るだろう。そう思うと憎しみはすぐ消えた。 「ごめんなさい。もうしません」  と彼女は謝っておいて下唇をきつくかみしめた。電話で良かった。顔を見られたら、ちっとも悪く思っていない表情だもの。 「じゃこれで」  と福本は言った。 「待って。今週は逢《あ》えるの?」  麻衣は慌てて訊《き》いた。 「多分ね。こっちから電話する」  男からいつ電話がかかるかと思いつめて待つ、女のせつない気持など、全くわからないのに違いない。麻衣は溜息《ためいき》をついて電話を切った。 「どうしたのよ?」  と、京子が書類から顔を上げずに小声で質問した。 「それが変な話なの」  麻衣は不快そうに顔をしかめた。 「誰かが私の名を騙《かた》って彼に電話したみたいなの」 「ほんと?」  京子はボールペンを唇にあて、ちらりと麻衣を見た。 「でも誰がそんなことを……?」 「それが問題なのよ」  麻衣は困りきったようにじっと京子の顔をみつめた。 「ちょ、ちょっと。そんな眼で見ないでよね」 「え? どんな眼?」 「私を疑っているって眼よ」 「まさか」  と麻衣は苦笑した。 「疑ってないわよ。考えもしなかった」 「当り前よ。第一私、彼の会社の名前も電話番号も何にも知りませんからね。あなたってわりかし秘密主義なんだもの。でも今となったらその秘密主義はありがたかったわ。知らないっていうアリバイが立派に通用するもの」 「こういうこともありなんと思って、教えなかったのよ……なんて言っちゃって」  麻衣はワードプロセッサーに向かい直しながら苦笑した。二、三行、企画課から回って来た原稿を打つ間、それに集中した。 「だけど、電話でずいぶんやりこめられていたみたいね」  京子も自分の仕事をすすめながら囁《ささや》き声で言った。「ちょっと陰険じゃない? あなたの相手」 「そんなことないわよ。陰険な人じゃないことは確か。だったらあたし惚《ほ》れたりしないもの。ただ、非常に注意深いのよ。何しろ不倫だからね」  不倫だからね、という一語に自嘲《じちよう》をこめて麻衣は言った。  それから一頁分無言でワードプロセッサーを打ち続けた。頁を変える時、 「でもほんとうに、誰がどんなつもりであたしの名を騙ったんだろう?」  と気味悪そうに呟《つぶや》いた。 「悪意がそこはかとなく感じられるわね」  と京子がそれに応答した。 「ただのいたずらよ。でも何のためにかしら?」 「きまってるじゃない、あなたを困らせようとしてるのよ。誰か他の女があなたに嫉妬《しつと》しているのかもよ」 「他の女って?」 「彼の新しい浮気の相手とか」 「ひどいわ、そんな言い方」  麻衣は気を悪くして京子の横顔をにらんだ。それから打ちまちがった二行を消して、新たに打ち直した。 「ごめん、ごめん」 「あのひと、浮気するような人じゃないわよ」  麻衣はまだ腹を立てながら言った。 「あーら。お言葉を返すようで悪いけど、奥さんいるんでしょ? だったらあなたとの関係は浮気じゃないの?」 「不倫だけど浮気じゃないわよ。彼、奥さんとはお見合いで義理もあって一緒になったから、本当に愛していないって言ってたわ」 「それ信じるの?」  京子は冷めた声でそう質問した。 「あなたの言いたいことくらい、ちゃんとわかっていますって」  と麻衣はやり返した。また単語を打ちまちがえた。 「男なんて、そういうことよく言うものだって、そう言いたいんでしょ?」 「わかってればいいわよ」  京子はそう言って彼女の書類の頁をめくった。 「でも彼の場合は特別なのよ。あたしだけにはそれがわかるの。嘘《うそ》ついていないってことが」  そしてチラッと京子を盗み見て「やっぱり信じてないでしょう。惚れると女って、みんなそう言うわよ、ってあなたの顔に書いてある」 「何もかもおわかりのようで」  京子はヤレヤレと頭を振った。 「それでいて何もわかってないんだから。一番問題なのはそういうタイプの女よ」  その時、奥の方から部長の声が飛んだ。 「おいそこのお二人さん。仕事中の私語は少しひかえたまえよ」  二人は首をすくめて、今度は本気で仕事に取りかかった。  その週、福本からの電話はなかった。なんとなく不安で落ち着かない状態で、麻衣は次の週を迎えた。  月、火、水と何事もなく過ぎた。福本から一週間くらい電話がないのは普通なので、あまり気にしないように努力した。  木曜の午後になってようやく、京子と二人で共同に使っている電話が鳴った。  もちろん、電話は日に何度も鳴りはする。たいてい仕事の内容だ。不思議なことに、仕事でないプライベートな電話は、その音でピンとわかる。同じ電話の音なのに、ちゃんとそれが聞きわけられるのだ。  だから京子が受話器を突き出して眉《まゆ》を上げて見せた時、やっぱりと麻衣は思った。 「僕だ、福本」  とせっかちに相手が言った。 「なんとなくそうなんじゃないかって、電話の音でわかりました」  うれしそうに、麻衣は言った。 「ほう? 僕が電話するのがわかったって?」 「ええ、なんとなくね」  と麻衣は微笑《ほほえ》んだ。 「じゃ、僕がなんのために電話するかも、わかるだろうな?」  その声に悪意が感じられたので、麻衣の微笑が途中で凍りついた。 「言ってることがよくわからないわ」 「このところ僕にひんぱんにいたずら電話がかかる。出るとしーんとして何も言わない。実に不愉快だよ」 「ちょっと待ってよ。まさかあたしだと思っているんじゃないでしょうね」  驚いて麻衣が訊《き》き返した。 「君じゃない? じゃ誰だい?」 「あたしじゃない。そんなことする理由がないもの」 「理由ならあるだろう?」 「…………?」 「僕が急に冷たくなったんで、嫌がらせなんだ」 「そんな。急に冷たくなったなんて、あたし思ってないもの」  舌が喉《のど》の方へとめくれ上がっているような気分だった。 「そうかな。こないだの電話で君、大分まいっていたみたいだから」 「こないだのも、その後のいたずら電話も、あたしじゃない。もういいかげんにして下さい」 「わかったよ」  と急に相手は冷えた声で言った。 「いいか、もし二度と僕のところにあんないまいましい電話をしてきたら、終わりだぞ。いいね」  そう言われると、躰《からだ》が、その場に崩れ落ちそうになった。 「待って下さい」  と麻衣は必死で言った。 「そんなの嫌です。そんな一方的なのって、ないわ……」  今にも涙がこぼれ落ちそうだった。  奥の方で、部長のかけている眼鏡が白く光った。 「じゃもうしないと誓いなさい」  福本が厳しい声でそう命じた。 「誓います。何もしていないけど、もうしません」  妙な言い方だったが、そう言うしかなかった。一刻も早く電話を終わらせて、ちゃんと逢《あ》って福本と話し合いたかった。 「だから逢って下さい」  相手は少し黙った。 「じゃ、今週の金曜の七時に。例のところ」  それだけ言うと、ぷっつりと電話が切れた。とたんにポロリと涙がこぼれた。  人目もあるので、麻衣はうつむいたまま、洗面所へ駆け込んだ。少しして、京子が心配そうな顔で中を覗《のぞ》いた。 「大丈夫? どうしたのよ?」  と彼女が声をかけた。 「濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》よ。完全に誤解なのに」 「じゃなんで誓いますとか、もうしませんなんて言ったのよ?」 「わからないわ」  途方にくれながら、麻衣は下睫毛《したまつげ》にたまっている涙を、ティッシュに吸いこませ、ついでにその紙で鼻をかんだ。 「わからないなんて言ってる場合じゃないでしょう? 一体何を認めちゃったのよ?」  京子は自分のことのように苛立《いらだ》っていた。 「いたずら電話がかかるんだって。そして何も言わないんだって」 「それ認めたの? あたしがしましたって? バカじゃない? それともあなたそういうことしたの?」 「するわけないでしょう!」  かっとして麻衣は洗面台を力一杯、平手で叩《たた》いた。手がじーんとしびれて肘《ひじ》の方へ激痛が走り抜けた。 「じゃなんで、もうしませんなんて言ったのよ?」  京子も負けないで、同じように洗面台を叩いて言い返した。そして顔をしかめた。 「だってあの人、もう終わりだって言ったのよ」 「してもいないのにしたって言って、何かの解決になるわけ?」 「少なくとも金曜日に逢う約束ができたわ。逢ってよく話してみるつもり。電話であのまま別れてしまうなんて耐えられないもの」 「あきれた」  本気であきれて京子が吐き出すように言った。 「とにかく誰かが、あなたたちの仲を引き裂こうとしていることだけは確かね」  麻衣はぎょっとしたように鏡の中の京子の顔をみつめた。 「誰が?」 「案外、奥さんじゃない?」 「え? 奥さんが?」 「そうよ。どうかした拍子にあなたの存在を知って——興信所に調べさせたのかもしれないし」 「だったら、直接彼に言えばいいじゃない。証拠があるんなら、そうするわよ」 「そこがあなたの考えの浅いところよ」  と京子は小鼻をうごめかした。 「男ってものはね、直接追いつめたりすると、かえって不利になったりするものらしいわよ。ほら『窮鼠《きゆうそ》、猫を噛《か》む』って言うじゃない。噛まれるくらいならいいわよ。男の多くはそういう場合、開き直っちゃって、いっそう外の女にのめりこんだりするって言うじゃないの」 「…………」 「だから利口な奥さんなら、問いつめたりはまちがってもしないわね」  京子は自分の仮説にますます自信を深めながら喋《しやべ》った。 「奥さんなら、声でわかっちゃうわよ」  と、反対に自信なさそうに麻衣は弱々しく反論した。 「だって、彼、一度も直接相手の声聞いてないんでしょ?」 「あ、そうか……」  いたずら電話はしんとしたままだと、福本が言っていた。奥さんかもしれないし、奥さんじゃないかもしれない。何の証拠もない。麻衣は気味悪そうに躰をすくめた。  福本四郎は約束の時間を四十分も遅れて、約束の場所に姿を現した。憮然《ぶぜん》としている。 「あれから、いたずら電話あった?」  と訊くと、嫌味な一瞥《いちべつ》を麻衣の顔にくれただけで黙っている。 「あたしのこと疑ってるのね、まだ?」 「他に誰が考えられる?」  冷えた声で福本が言った。今までに見せたことのないような冷たい表情だ。 「怒らないでね。でも……」  と麻衣は言い淀《よど》んだ。 「でも、奥さんかもしれないって、考えてみた?」 「まさか」  と即座に彼は否定した。 「そんなことをするような女じゃないよ」  麻衣はしょんぼりとした。 「あたしだってそんなことするような女じゃないわよ」  ふと、福本の表情が揺れた。疑惑が灯《とも》ったみたいだ。そしてじっともの思いにふけった。 「しかし、やっぱり、女房ってことはありえないよ」  と彼は自分自身に言い聞かせるように呟《つぶや》いた。 「もしもよ、もしもあたしが理不尽に捨てられた女なら、その腹いせに陰険ないたずら電話かけるかもしれないけど、あたし捨てられたわけじゃないもの。まだすごくうまくいってるじゃない、あたしたち。それなのに、なんでみすみす自分の方からぶち壊すような真似しなくちゃならないの? そこのところをよく考えて欲しいのよ」  麻衣の真剣な説得の声が福本の心に届いたのか、彼の表情から冷たさが消えた。 「でもなぁ……。女房とはなぁ……」  困惑しきったように福本は顎《あご》を撫《な》で始めた。 「奥さんに訊《き》くの?」  恐る恐る麻衣が質問した。ウェイターが冷たいコーヒーを二人の前に置いて去った。 「そんなこと訊けるかなぁ。訊くとしても仄《ほの》めかす程度にしないと、逆にヤブヘビになるからな」 「なんとなく様子を観察すれば?」 「ああ」  福本はひどく憂鬱《ゆううつ》そうにそう言って黙りこんだ。 「今夜これからどうする?」  期待をこめて、麻衣は話題を変えた。 「どうするかな」  意外にも気乗り薄に福本が遠い眼をした。 「食事して、そのあとあたしのマンションにこない?」  自分の方から積極的に誘ったことは、これまでなかった。彼女はあせりを感じた。 「ちょっと疲れてるんだよ、このところ。いろいろあって。電話のこともあるしさ」 「いたずら電話って、一日に何度くらいかかったの?」 「多い時は八回か九回。仕事中なんだぜ。囲りは妙な眼で見るし。ほとほとまいったよ」 「このところないの?」 「昨日からピタッと止まった」  ちらりと疑惑が福本の眼の中を過《よぎ》った。「君に電話をして以来だけどね」 「まさか、まだあたしを疑っているんじゃ……」 「けどさ、百パーセント信じるったってなぁ」 「そんな疑いをかけられていたんじゃ、マンションに来てもらっても仕方がないわ。食事も止めましょう。完全に疑いが晴れたらまた電話してよ」  今度こそ本気になって怒ると、麻衣はさっと立ち上がって、出口に足早に向かった。 「待てよ」  とレジのところで彼女に追いつくと、福本はしっかりと彼女の腕を握った。そうしておいて勘定を払うと並んで歩きだした。 「今、君の怒った顔を見たとたん、疑いは百パーセント晴れたよ。疑ってすまなかった」  再び元の福本の素顔が戻った。声も誠意があって温かかった。  二人はカウンターの和食の店で夕食を共にし、かなり酔ってから麻衣のマンションにもつれこんで一夜を共にした。  その夜から四日後のことだった。麻衣の仕事場の電話がチリンと鳴った。京子が出ると、ニヤリと笑い、無言で受話器を差し出した。 「もしもし……」 「やっぱり貴様だな」  といきなり噛《か》みつくように福本が言った。貴様という言い方に、気圧《けお》されて麻衣はポカンと口を開いたまま、言葉が続かない。 「一体どういうつもりなんだ。何が狙《ねら》いなんだ。言ってみろ。言えよ」  すごい剣幕で相手が言いつのった。 「そっちこそ……なんのつもり?……」  唖然《あぜん》として麻衣は絶句した。 「女房のせいになど、よく言ったな。違うじゃないか」 「え?」 「犯人が女房なら、なんでその女房のところに、いたずら電話がかかるんだよ?」 「奥さんに?」 「しらばっくれるな。土曜日には十六回。日曜日は全部で三十回近く、例の無言の電話が入った。僕も出た。この耳でちゃんと聞いたんだ」 「でも……」  あまりのことに膝《ひざ》がガクガクと震えた。 「病気だよ、病気。貴様は陰険で嫌らしい女だ。そんな女と関係してきたのかと思うと、嫌悪のあまり反吐《へど》が出そうだ」  福本はかつて聞いたこともないような、恐ろしく冷たい声でそう吐き出すように言った。  つい三日前の夜、あんなに親密に愛しあった同じ相手の言葉だとは、麻衣は信じられなかった。受話器を取り落としそうになった。わなわなと震える手で持ち直して、助けを求めるように隣で仕事をしている京子の横顔を茫然《ぼうぜん》とみつめた。 「いいな。今度いたずら電話を一本でもかけて来たら、警察に訴える。わかったな? 言いたいのはそれだけだ」  耳に突き刺さるような音をたてて電話が切れた。切れたあとも長いこと麻衣は受話器を耳にあてたまま、じっとしていた。涙で視界が曇った。  その白濁した視界の中で、京子の横顔の輪郭が滲《にじ》んでいた。ふっとその口元が歪《ゆが》んだように見えた。薄く笑ったのかもしれない。  次の瞬間、何かが弾《はじ》けた。麻衣はとっくに切れてしまった電話をそっと元に戻すと、京子の白い横顔にむかって言った。 「あなたが前につきあってた人のことだけど——」 「昔のことよ。もう忘れたわ」  こちらを見ないまま京子が素気なく答えた。 「今思いだしたんだけど、工作機械をやってた人よね」 「そんなこと言ったっけ?」 「一度だけ聞いたような気がするわ」 「嫌な奴《やつ》よ。ひとのこと妊《はら》ませておいて、ボロみたいに捨てたわ」 「それで騒ぎになって、彼は課が変わったって言ったわね? そしてあなたは転職した」 「どの課に変わったのかは知らないわ」 「いいえ、知ってるはずよ」  初めて京子が顔を上げた。 「あなたなのね?」 「何のこと?」  無表情で京子が訊き返した。 「あの一連のいたずら電話のことよ。しらばくれないで」  長い沈黙があった。急に京子は破綻《はたん》したようになって、ひびわれた声で言った。 「あなたにかかって来た電話を取った時、最初にピンときたのよ。彼の方は、わからなかったみたいだけど。あいつは私にひどい仕打ちをして、捨てたのよ」  奇妙な空《うつ》ろな表情だった。ぞっとして麻衣は同僚の白い横顔から眼をそむけた。  ポール  珊瑚礁《さんごしよう》に太陽が沈むと、火消し蓋《ぶた》のように暗黒が島をすっぽりと包むんだよ。  たちまち、ボクの部屋の中は、闇《やみ》と孤独でいっぱいになってしまう。  燦然《さんぜん》たる太陽や、ほとんど眼《め》にしみるばかりの紺碧《こんぺき》の海や、潮の甘い香りが忽然《こつぜん》と存在しなくなり、無数に生えているココ椰子《やし》の輪郭さえも闇に呑《の》みこまれてしまうんだ。  たまらなく淋《さび》しくなって、ボクはやたらに何かに触れずにはいられない。何か丸みのあるもの、温かいものに。とにかく名状できない暗闇で、かつて見たどの夜よりも、島の夜は暗いんだ。  絶対的な闇。  慰安を求めて何かに寄りそいたくなるのはそんな時だ。  捨てて来た文明に、都市の人工的な明るさに、アスファルトの車道や林立する高層ビルや夥《おびただ》しい人間の顔や、ボクたちがよく行った街角のイタリア料理店や、そこで飲んだ一九七八年もののキャンティ・クラシコや、ボクたちが大好きだった犢《こうし》のレバーソティーとか、キミの小さなキッチンでキミがよく作ったロシア風のマッシュルームのパイとか、ケニー・ロジャースやボウイやマイケル・ジャクソンのカセットとか、そういったボクが置き去りにしてきたものすべてが、たまらなく恋しくなるんだよ。  特に、キミが。  最愛の女《ひと》。後に残して来てしまったものの中で、ボクをとりかえしのつかない気持ちにかりたてるのは、常にキミなんだ。  キミの不在がボクをひそかにすすり泣かせる。——夜。母親を恋しがって泣く男の子みたいにだよ。キミの笑顔や、声や、くすんだ色の髪の毛や、お喋《しやべ》りや沈黙や、キミの匂《にお》いや——要するにすべてが、ボクをすすり泣かせる。  どうして一人の女が、ボクの中心の暗闇にこれほどまでに君臨してしまうのかと——。そもそもボクは逃げだしてきたんじゃなかったのか?  文明から。文明の体現するすべてから。キミから。  憎しみの感情だけになってしまい、都会の喧騒《けんそう》の中で一瞬も呼吸ができなかったから。キミの愛——夜ごとの交接。もはや愛でも、めくるめく快感でも、慰めでもなくなってしまったボクらの性愛。  むしろ責め苦。かつてゆりかごであったベッドは、戦場と化して。  それなのにキミに逢《あ》いたい。キミを抱きしめたい。ボクの島は成田から四時間半の距離。  すぐにおいで。夜が明けてしまう前に。  ポール  あなたはいない。きらめく白い砂浜にも、あなたの借りた小さな漁師の離れ屋《バンガロー》にも、椰子《やし》の作る葉陰にも。  入江のどこかで息をひそめて私をみつめているのかしら。あるいは背後の密林《ジヤングル》のどこかで。  それとも珊瑚礁《さんごしよう》の海底で、熱帯魚とたわむれているのかしら。  島の小さな飛行場に降り立ったとたん、ここがあなたの求めた楽園であることが、私にもわかった。楽園と同時に地獄であることが。  なんという光りの量。肩にくいこむ日射《ひざ》しの重さ。光の粒子が肌に突き刺さる。あたりに一面たちこめているのは、黄色味を帯びた酷熱の空気。  あなたの借りている漁師のバンガローも無人で、海からの風だけが吹きぬけていた。  たった今まであなたがこの部屋にいた痕跡《こんせき》だけを無数に残して、ポール、あなただけがいない。  飲みかけのコーヒー。触れてみるとカップは微《かす》かにまだ温かい。  寝乱れたベッド。皺《しわ》のよったシーツ。ポールの匂《にお》い。  ピロの上の巻毛。  シャワーを浴びたばかりで、まだ濡《ぬ》れている床のタイル。湿ったバスタオル。  トマトとマッシュルームと卵が二つ、スパニッシュ・オムレツを作るばかりに準備されている。ペッパーと塩と、フライパンにもバターまで引いてあり、そのバターが室温で溶けかかっている。  ちょっと母屋の漁師のおかみさんに、チリパウダーを借りに走り出ていったような具合に、なにもかもがやりかけの状態で。ポールだけがいない。 「わたしはルンヌ。ポール? さぁ知らないわ」  漁師の妻はチョコレート色の額にかかった髪を、同じチョコレート色の指先でものうそうにかき上げる。あわてて奥から出て来たので、ブラウスのボタンが全部外れている。  それを前で掻《か》きあわせながら、野生のピューマのように、油断なくこちらをみつめている。 「誰、あなた?」 「ポールの、友達」 「ポールを訊《たず》ねて来たの? ポールがあなたを呼んだの?」  ルンヌの胸から、チョコレート色の乳房が半分ブラウスの外へこぼれ出た。彼女はそれに気づいてさえいない。 「でもそのポールが、見あたらないの。どこにもいないの」 「前の海で、ひと泳ぎしているんでしょうよ」 「それでは待ってみます」 「いつまで島に?」 「ポールが良いと言うだけ。彼が戻ったら、二人で考えるわ」  ルンヌの黒い瞳《ひとみ》が光る。次の瞬間、彼女はパレオの裾《すそ》をひらめかせて、そのまま家の奥へ——寝室へと消える。  ポールはそこにいるのに違いない。漁師のベッドに。  早朝、漁師が入江から珊瑚礁《さんごしよう》の外へ漁に出かけて、夕日を背に戻るまで、漁師の妻は一人ぼっちだ。そしてポールも一人ぼっち。  一面の夕焼けだった。一日の漁《りよう》を終えた小舟が一艘《いつそう》、逆光の中を入江に入ってくるのが見えた。醜悪だけど精悍《せいかん》な容貌《ようぼう》の若い漁師が、小魚の入った網を背に、白い砂を踏んで行った。夕日を浴びて腰のさやナイフがキラリと光った。  珊瑚礁の海が、血の色に染まった。めくるめくようなミクロネシアの日没の色。  島で何が起こったのだろう?  あの夜、ポールは帰らなかった。私はポールの不在と共に不安な一夜をまんじりともせず過ごした。  朝早く、真珠色の靄《もや》の中を、漁師が褐色の輪郭を滲《にじ》ませながら砂浜へ向かうのが見えた。精悍な背に、網に包んだ何か大きなものを、軽々とかつぎ上げて、足早に靄の中へと消えて行った。  太陽が出ると乳白色の靄はたちまち蒸発してしまい、島は再び発光体となって燃え上がるのだった。  殴《なぐ》りつけられるような暑さの中を、私は飛行場へ向かった。漁師の家はしんとしており、通りすがりに覗《のぞ》くと、ルンヌの青いパレオが見えた。 「もうお帰り?」 「ええ。ポールが戻らなかったから」  ポールは二度と戻らないだろうと確信しながら私はルンヌをみた。チョコレート色の顔が少しむくんでいた。白眼が真っ赤だった。  さよならルンヌ。さよならポール。さよならミクロネシアの島。  私の家のマンションの十一階の部屋から、街並を眺めていると、都会の光景に、あの島の海の景色が重なって見えるような気がした。  けれどもあの時、私がみつめていたのはさえぎるものひとつない大海原だったが、都会の蜃気楼《しんきろう》の中では、ポールの島が、忽然《こつぜん》と浮かび上がって見えるのだった。  そうなのだ。すべては蜃気楼なのだ。夢なのだ。何も実際には起こりはしなかったのだ。  私はミクロネシアにも行かなかったし、飛行機に乗りもしなかった。  ポールのバンガローでは、部屋の主——すなわちポールが、今ごろ作りかけのスパニッシュ・オムレツを上手に焼いて朝食を作っているに違いない。  あの熱気も、海からの熱風も、空にそびえ立つ椰子《やし》も、圧倒的な夕焼けも、ルンヌも、漁師も、殺人も、すべて私の想像でしかなかったのだ。  美しいポール。ヨットが港から港へ渡り歩くように、ポールも女から女へと移っていく。そして現在ミクロネシアの美しい島に寄港しているというわけだ。  かつて私を残酷に捨てた男の面影を追って、私は想像上の旅に出て、憎むべき男を殺したのだった。空想の中で——。  二日後にポールから絵葉書が届いた。  とうとうボクは光を見つけたよ。だから島の夜も怖くはない。  月だよ。  この島にかかる月のおかげで、ボクはもはや孤独じゃない。夜の闇《やみ》の中で、慰安を求めて一人震えることもなくなった。  彼女は——月は——、暗黒の脅威からボクを救いだしてくれた。  キミに書いた前回の手紙は、訂正するよ。キミが来てくれても、結局、ボクらは同じことになるだろう。同じ破局に。もっとずっと早く、もっと残酷な破局に。  ボクらの恋は終わったんだ。  全身をねじ切られるような悲しみが、私を襲った。ポールの葉書に書かれてある日付けは、私がミクロネシアに向けて出発したあの日と同じだった。辞書をひくとルンヌは月というフランス語であることがわかった。  ルンヌのチョコレート色の豊かな乳房に、慰安を求めた愚かなポール。  私が待ち受けている自分の部屋に戻ってくるわけにはいかず、結局|嫉妬《しつと》に猛《たけ》り狂ったルンヌの夫に殺されてしまったポール。  彼を照らした月。ルンヌ。  彼女も又、そんな風に残酷にポールを失わなければならない運命にあったということだ。  そしてポール。  乳白色の靄《もや》の中を、死体となって漁師の背にしょわれ、舟に揺られて珊瑚礁《さんごしよう》を越え、南の海の奈落《ならく》へ葬られたポール。  一匹の細身の魚のように、深海へ向かって無限に落ちていくポールの姿が、私には見えるような気がする。  ポールの絵葉書を手に、どれだけ時間が経《た》ったのだろうか。  窓の外には、朝の最初の光が射《さ》し始めていた。  太陽の日射しがまだ充分に街の隅々まで届いていないので、風景の大半はまだ薄靄の夜の中で眠っていた。  私は立ち上がって、顔を洗いに洗面所へ行った。冷たい水で、熱をもったような顔をひやした。  鏡の中から、あの朝、島に別れを告げた時に見たルンヌと同じ、泣きはらした赤い眼《め》が、じっと私をみつめていた。  ポール。あなたが憎い。そしてポール、あなたが愛《いと》しい。あなたの死が悲しいけどあなたが死んでくれて、私はうれしい。  なぜなら、あなたがどこかに生きていて、私以外の女たちと愛しあっているということを想像しながら生きていくことは、とても辛《つら》いことだから。  ポール。南の海底から、夜になると月が見えますか? あるいは、あまりに深すぎて、月の光りはおろか、あの太陽光線も届かないのかしら。あんなに夜と孤独とを恐れたあなたが永遠に横たわる場所が、絶対の暗闇《くらやみ》と静けさの中とは、皮肉なことね。あなたのために、マイケル・ジャクソンのスリラーをかけることにするわ。いつかあなたが海の底からよみがえるように。  別れ話  彼が冷たくなったのが先か、女が執拗《しつよう》になり始めたのが先か。多分、それはほとんど同時期のことなのではないか。  男と女のことなんて、始まりがあれば必ず何時《いつ》か終わるものだし、それが二年続くか六ヵ月で終わるか、問題は時間の長さだけ。  雄介の方はそう割り切っている。つまり気持ちがすっかり冷めていたから、そんなふうに割り切ることができる。  嫌だということになったら、なし崩しにだめになるものだから、できることならその過程を踏まずにすませたい。修羅場になることだけはお互いのために避けたい。雄介はそう考えて、自分の方から別れ話を切りだすことにした。  問題は場所だった。どこで肝腎の話を持ち出すかだ。彼女のアパートか、自分の部屋は避けた方がいいと本能的に思った。彼女が逆上して発作的に暴力をふるわれるのは恐ろしかった。部屋の中というものは、咄嗟《とつさ》につかめば凶器になるものがいくらでもあるからだ。  ある程度人目があって、しかもこちらの話し声があたりの人々に聞こえないような場所ということになると、喫茶店とかカフェバーのような屋内ではない方がいい。夜の公園というのもなんとなくためらわれた。  考えに考えた挙句、ビルの屋上のビヤガーデンを思いついた。いささか感傷に欠けロマンチックではないが、その方がむしろいい。案外握手をしあって明るく別れられるかもしれないではないか。  そんなわけで彼は電話で須麻子を呼び出した。待ち合わせは何時もの中庭のある喫茶店。  約束の時間に十五分遅れて彼女が現れた。女は十五分くらい遅れて行くものなのだと、なぜか最初から思いこんでいたみたいだった。一度の例外もなかった。最初から最後まで十五分の遅刻でつらぬき通したのだ、須麻子は。そんなことを、あたふたと近づいてくる彼女を醒《さ》めた眼で眺めながら、雄介は胸の中で呟《つぶや》いた。  別れる決意をもって眺めると、まだ彼女はまんざら捨てたものではない気がする。ベッドでは、両の手に余りたわわな重みで牝牛《めうし》を連想させる大きな二つの乳房も——甘いバニラの匂《にお》いを放つ彼女の大きな乳輪に浮かぶ汗も——今は白い麻のツーピースの中に押しこまれて、ちんまりとした膨らみを見せている。素足のサンダルの先端で、オレンジ色のペディキュアが少し剥《は》げかけている。須麻子は、すりきれてしまった大好きなレコードを彼に思わせた。好きで手に入れた曲を、あきるほどくりかえし聴いたのは、彼だった。たしかにそうだが、彼女がすり切れてしまったのは、彼一人のせいなのだろうか。  以前には、剥げかけたペディキュアのままあたふたと彼の前には現れなかった。でも彼女が十五分遅れてくることについては、今とは少し印象が違っていたような気もする。彼女が遅れてくるのが、なんとなく誇らしかった。遅れて現れるとまぶしかった。今は、須麻子の計算とだらしなさとが見える。 「やあ」  と彼は、彼女とつきあい始めた頃みたいに、立ち上がって彼女を迎えた。さすがに椅子《いす》を引いてやることはひかえたが、自分でも照れることには、咄嗟の行動だった。 「あら」  と彼女はうれしそうに顔を輝かせたが、昔みたい、とは言わなかった。 「一杯飲んだら出ようよ」  須麻子が坐るのを待って雄介は提案した。  彼女は微笑して、中庭に出ている白いテーブルや椅子や、若い男たちだけのグループを眺めた。突っぱった高校生たちで、劣等感があるくせに、他人に眺められたいのだ。彼らは、完成していない大人の男の声で喋《しやべ》るかと思うと、急に何も喋ることがなくなって、何十分も誰も何も言わなくなったりする。  須麻子との間にも、もはや何も喋るようなことはなかった。何も喋ることがないから、どちらかの部屋へ行き、セックスをする。どちらかの部屋に入ると、どちらかがテレビのスイッチを入れる。見たいわけでもないのに、しばらくぼんやりと並んでテレビを眺めている。そのうち何となくセックスをやり始める。テレビはついたままだ。そしてまたセックスの後テレビを眺め、彼か彼女が帰って行く。テレビがなかったら、二人の関係がどうなっているのかと考えると、恐ろしいような気がすることが時々あった。だが、それももう終わりだ。  雄介は須麻子のむきだしの白い腕を見る。もう夏なのだ、とそれで思った。彼女の白い腕はすべすべしていて冷たそうだ。  彼女はどこもかも冷たい。お尻《しり》も、お腹も、乳頭も乳房も、いつもびっくりするほどひんやりしていた。 「何よ? 何見てるの?」  と須麻子が訊《き》いた。その口調で、もしかしたら自分の眼が、見収めの眼つきをしていたのではないかと、雄介は少しうろたえた。 「きれいだよ」  思わずそう言ってしまってから、腹立たしいことに彼は赤くなった。  もっともほんとうに赤くなったかどうかはわからない。耳と頬《ほお》のあたりが少しほてっている感じだから、赤くなったと思うのだ。そのことに須麻子が気づいたかどうかわからない。彼女は注文したオレンジジュースのストローを啜《すす》るために視線を落としていた。  その時店に入って来た女が、誰かを探すように店内を進み、雄介たちの斜め前の席についた。どこもかもピカピカに磨きたててある。つややかな素足。ペディキュアはグレーのパール。思わず顔を埋めたくなるようなふんわりとした髪。  傍で須麻子が何かの合図のように、カタリと音をたててオレンジジュースのグラスを置いたので、雄介は我にかえってようやくその女から視線を剥がした。  誰だってそうだと思うが、特に須麻子はデイト中、雄介が他の女を見るのを露骨に嫌がる。  そんなの失礼よ、とか、よそ見しないでちょうだい、とぴしりとした声で言ったものだ。  けれども今は、わずかに傷ついたような表情を、オレンジジュースの上に落としているだけだった。  そうやって、自分が傷つけられたということを隠さなくなったのは何時頃からのことだろうか。その頃から、彼の気持ちにも変化が起こったのではなかろうか。  ふと見ると、須麻子は、そのピカピカの女を盗み見ていた。その横顔には、無防備な羨望《せんぼう》の色が滲《にじ》んでいた。  嫌なものを見てしまったような気が、雄介にはした。羨望の眼つきゆえ彼女はますます色あせて彼の眼に映るのだった。 「出よう」  と、雄介はだしぬけに伝票に手を伸ばした。 「何怒ってんのよ」  と店の外に出ると、須麻子は大股《おおまた》で歩く雄介の歩調に合わせるために、小刻みにヒールの足を動かしながら訊いた。 「別に怒っちゃいない」  彼は憂鬱《ゆううつ》そうに答えてぐんぐん歩いた。 「怒ってるわよ。顔みればそれくらいわかるわよ」  懸命に歩調を合わせようとして、息を切らせながら彼女は言った。  なんとなくけなげだった。けれども彼には、そのけなげさみたいなものが、鼻についてやりきれなかった。急に何もかもが嫌になって、彼は歩調を緩めた。 「どこ行くの?」  と彼女が訊いた。 「そうだな。気持いい晩だから、どこかビルの屋上ででも、ビールを飲もうか」  どこかの屋上も、ビールも、彼女の好みでないことはわかっている。彼だって、ビヤガーデンにわざわざ女を連れて行ったことはない。  須麻子はいいとも悪いとも言わずに、信号が青になると彼の半歩後を歩きだした。いいとも悪いとも言わないのは、悪いという意味である。彼女がわがままを言わなくなったり、自分の気持を内側にたたみこんだり卑屈になるのを見ると、彼はますます心が冷えるのだった。  七階建てのビルに、赤や青の提灯《ちようちん》が、にぎやかにともっている。雄介はかまわずそこへ向かって強引に突き進んだ。  屋上には地上には吹かない風が吹いていた。提灯が、首のところから激しく揺れていた。今にももげそうだが、屋上に風が吹くのは珍しいことではないのだろう。ウェイターもウェイトレスも、気にもせず、忙しく立ち働いている。 「風って嫌だわ」  と須麻子は髪の乱れを気にしながら、そう言った。ビルの屋上とかビールには言及しなかったが、彼女が本当に言いたいのはそっちの方のことらしかった。雄介はそれを無視して、できるだけ奥の方の席を選んで坐った。 「何にする?」  と彼はできるだけ穏やかに訊いた。 「ビールしかないんでしょ?」  さすがに憮然《ぶぜん》として須麻子が言った。 「そうだね」  雄介は我ながらまのびした苦笑を浮かべた。  それからウェイターを呼び、中ジョッキを二つと枝豆とヤキトリとサラミソーセージをつまみに頼んだ。  ビヤガーデンは、まだ真夏というわけではないので、満席には程遠かった。五つに一つの割りでしかテーブルは埋まっていない。ガラガラのビヤガーデンというものは、妙にわびしい感じがする。須麻子は溜息《ためいき》をつくと、バッグの中から煙草を取り出した。 「ついに寿美世が、退職届け出したわ」  とポツリと言って、彼女はセイラムを一本口にくわえた。彼が火を差しだすのを待ったが、何もしないので、くわえ煙草のままバッグの中をもう一度探った。青い百円ライターをみつけると、それをカチリと押した。火をつけ終わると、批難するようにチラリと彼の顔を見た。もっとも、彼女の煙草に火をつけてやらないのは、今日が初めてというわけではない。このところずっと、そのわずらわしい義務は投げ出してしまっている。食事の後に一、二本喫う女ならともかく、デイト中に十二、三本は喫うから、自分の分を入れると始終カチカチやらなければならないのだ。だが、かつては、彼女の煙草の先に火をつけてやることが、彼の歓《よろこ》びのひとつでは、たしかにあったわけだった。 「山口寿美世、覚えてるでしょう」  もちろん覚えている。須麻子と寿美世と彼女のボーイフレンドと雄介とで、ダブルデイトをした一時期があった。今から思えば酔狂なことをしたものだと思う。ダブルデイトなんて発想は絶対男にはない発想なのだ。女ばかりが変にはしゃいでツルんでいるのを、男は白けた顔で眺めたものだった。 「結婚退職よ」  できるだけその言葉をさりげなく言おうとしたのだろう。そのためにかえって、彼女の意図しようとしたことが、逆に露呈する感じになった。 「相手は、例の彼氏かい」  仕方なく、雄介はそう質問した。 「当り前でしょ」  びしりとした言い方で彼女が言った。 「当り前かな」 「そうよ。もう二年も交際してるんですもの」 「二年交際すると結婚するのが、当り前なのかね」 「普通はそうなんじゃないの」 「まあね」  彼はそう言って、ビールのジョッキを乾杯の形に掲げ、ひとり口へ運んだ。須麻子はそれを無視して水の入ったグラスから、ほんの少しだけ飲んだ。 「ビール、飲まないの?」  口のまわりの泡を手の甲で拭《ぬぐ》いながら、雄介が訊《き》いた。 「だって、寒いんですもの」  須麻子はオーバーに躰《からだ》をすくめてみせた。彼は彼女を眺め、寒いといったことには全く同情を覚えず、別れ話をどう切り出したものかと、思案した。 「私たち招《よ》ばれているのよ」 「招ばれてるって?」 「彼女たちの披露宴よ」 「いつ?」 「五月の第一土曜日。行くでしょう?」 「どうするかな」  雄介は顎《あご》を無意識にこすった。 「どうするかなって、どういう意味よ?」  いきなり須麻子の声に、金属的な驚きが混った。 「実はね」と彼は口ごもった。脇《わき》の下に冷たい汗が滲みだすのがわかった。 「実は話があるんだ」  須麻子の視線を避けるように、彼は自分の手をみつめた。 「何よ、改まって」  彼女は声をひそめた。 「別に他に好きな女ができたとかそういうんじゃないんだ」と彼は遠まわしに切り出した。 「何のことよ?」 「だからさ、君のことが急に嫌になったとかそういうことでもないんだよ。ただ——」 「ただ、何よ?」  おうむがえしに須麻子が言った。 「このままずるずるやっていると、俺《おれ》たちは必ずだめになるような気がするんだ」 「そんなことわからないじゃないの」 「いや、きっとお互いを憎むようになるよ」 「私のこと、もう飽きたの?」 「そうじゃない。そんなんじゃないんだ。いいかい、そんな次元の低い話をしているわけじゃないんだよ」  そうだ飽きたんだよと言えたらどんなにいいかと、雄介は考えながら、そう言った。しかしその通りなのだ。なぜ言えないのだろう? 「じゃどういうことよ。説明してよ」  テーブルの上に投げだされている彼女の手が、力なく握りしめられた。 「少し、時間が必要だと思うんだ。俺たちには」 「なんのためによ? どういう時間よ?」  握られた手が、苛立《いらだ》たしげにコツコツとテーブルを叩《たた》き始める。 「自分のことをみつめ直す時間だよ。二人の関係をみつめ直す時間」 「じゃやっぱり別れたいってことなんじゃないの、要するに」  彼女は少し身を引くようにして、斜めに躰をかまえると瞳《ひとみ》を光らせた。 「それは違う。全く違う。別れるなんてことは俺が意図していることと全然違うことだよ」  雄介は顔の前で手を振って言った。「むしろ別れないですますために、俺たち、少し離れて考えてみようというんだよ。わかる?」  いったい俺は何を言っているんだ、と彼は口の中に嫌な酸味を覚えた。 「全然わからない」  あまりにもきっぱりと須麻子が首を振ったので、雄介は唖然《あぜん》としてしまったほどだった。 「わからない? 全然? じゃ今まで俺が喋《しやべ》ったこと、聞いてなかったの?」 「聞いてたわよ。一生懸命、一言残らず聞いたわよ。他に女ができたわけでもないし、私を嫌いになったわけでもない。だったら何が問題なのよ? このままずるずる交際を続けること?」 「まさに、そのところなんだ。俺が心配しているのは」 「なら簡単よ。ずるずる中途半端にするのは止めて、結婚しちゃったらいいのよ。寿美世たちみたいに。ね?」 「そんな単純なことじゃないだろう」  雄介は苦々しく言葉を吐きだした。「ちょっと考えさせて欲しいんだよ、俺は」 「結婚するかどうかってこと?」  須麻子の瞳孔《どうこう》が猫のように狭まった。 「結婚するとしたら、君とするよ。それだけは約束する」 「…………」 「ほんとだって。将来、結婚するんなら君以外の女とはしない。ただ当分俺、結婚は考えていないんだ」 「当分って?」  ひたりとみすえてくるような眼の色で、須麻子が訊き返した。 「どうして君はいちいち、こっちの言葉尻にとびつくんだよ」  苦しまぎれに、雄介は大声を出した。 「私にとって、大事なことだからよ。当分ってどれくらい当分のこと?」 「三十前には結婚する気になれないんだ」  三十まであと四年ある。須麻子は二十八歳になっている。 「なんだそんなことなの」  とケロリとして彼女が言った。 「それくらいなら当然よ。初めから三十前なんて期待していなかったわ」 「し、しかし、三十になったから、すぐっていうわけじゃないしさ、第一、あと四年先のことなんて、お互いにわかんないじゃないか」 「そりゃそうよ。でも——」 「俺、自分も縛られたくないしさ、君を縛りたくもないんだ。どうせ結婚すれば一生、ある意味で縛りあうことになるんだからさ」 「私、縛る気なんてないわよ。いつ縛った?」 「うん、わかってるよ」  雄介は手を伸ばして、ゴクリとビールを飲み干した。少し生ぬるくなっていた。こんなはずではなかったのだ。別れるつもりが、三十で結婚するみたいな約束をするはめになってしまっていた。どこでどうまちがえたのか、雄介は必死で考えた。 「さっきも言いかけたんだけどさ」  と彼は会話の軌道を修正して言った。枝豆もヤキトリもサラミも手をつけられないまま並んでいた。須麻子のビールの泡はすっかり消えている。 「一時的休戦協定みたいなものを結べないかな」 「喧嘩《けんか》しているわけでもないのに、何が休戦なのよ?」 「休戦協定みたいなもの、と言ったんだよ。つまり、一時的にちょっと——」 「ちょっと何?」 「一時的に別れてみようよ」  思い切って、彼は別れという言葉を切りだした。 「どうして?」 「どうして?」 「そう、どうしてよ?」  雄介はいよいよ自分が窮地に陥ったような気がした。どうして一時的に別れたいのか? つまり永久に別れるための、ステップとして、そうしたいわけなのである。それをどう彼女に言うべきか。 「風を入れるのさ、俺たちの関係に」  我ながらいい表現だと雄介は思った。「どこもいたんでいないつもりでも、家と同じようなもんでさ、見えないところがむれたり、腐蝕したり、いたんだりするんだよ、男と女の関係だって。君は不服かもしれないが、君には見えていなくても、俺には見えている部分もある。俺は、俺たちの関係のどこかに、白アリが湧《わ》いているのが、何となくわかるんだ」  雄介はますます自分の表現に酔って続けた。 「今手当てすれば間に合うと思うんだ。しかし今という時を逃すと、俺《おれ》たちの関係は白アリに食い尽される。気がついた時には、屋台骨だけ残して、何もかも食い荒らされて、家はバラバラに解体する。この道理、わかるね?」 「白アリが、どこに巣食っているって言うの?」  と須麻子は眉《まゆ》を寄せた。 「君には見えないんだ」 「その白アリみたいなものが、仮に私たちに巣食っているとしてよ、風を通したら、消えてなくなるっていう保証はどこにあるの?」 「白アリ駆除の専門の会社に頼めば、七年間、二度と白アリが出ないことを保証するよ」 「そんな冗談止めてよ。面白くもおかしくもないわ」  須麻子は表情を引きしめた。「私は認めない。一時的な休戦なんて言うけど、ほんとうは、そのままずるずると、別れちゃいたいってことなんじゃないの。要は」と須麻子はまなじりを上げた。 「もしもね。そうしたいんだったら、俺さ、ちゃんと今この場でそう言うよ。あれこれ前置きして何だかんだ君を丸めこんだりせずに、きっぱり別れようって、そう言うよ」 「じゃ言いなさいよ。きっぱり男らしく、あたしのこと嫌いになったから、別れたいって、そう言ってみなさいよ」  彼女はそう言って、顎《あご》を突き出した。 「それが事実俺の気持なら、俺、そう言うよ」  ほとんど涙がこぼれそうだった。雄介は髪を掻《か》きむしった。 「じゃ、別れたくないっていうのね? 私が嫌いなわけじゃないのね?」 「違うよ、違う、違う」 「ああ、よかった」と彼女は両手を胸の前で合わせて、力がぬけたように背中を椅子《いす》にどすんとあずけた。 「じゃなんで風を入れるなんて言ったのよ?」 「もういいよ。もうそれをむしかえすの止めてくれよ。もういいんだ」  雄介は手を伸ばして、枝豆をひとつつまんで、指を押して豆だけ口に入れた。茹《ゆ》ですぎて水っぽい味がした。 「ねえ、場所変えない?」  と不意に彼女が言った。「もっと感じのいい素敵な店に行って、食事して飲み直さない?」  彼はうなずいて腰を上げた。こうなったら、酔っぱらうほど飲んでやろうと思った。やけ酒だった。  数時間後、雄介は、彼女のたわわな乳房の下で半ば窒息しかけながら、あえいでいた。彼女の全身は汗ばみ、ほんのりとバラ色に染まっていた。彼はたて続けに、結婚しよう、と彼女の下で叫んだ。奇妙にも、そう叫ぶと、彼は興奮を覚えた。その時初めて、もしかしたら自分には自虐的な趣味があるのではないかと感じた。愛の終わってしまった女と結婚するのだ。快感と共に痛みが彼の中からほとばしり出た。  やがて彼女は彼の上から滑りおりて、ベッドに身を投げだした。長い沈黙が流れた。 「今の本気?」  と、少し違った声で彼女が訊《き》いた。 「今のって?」 「結婚しようって何度も言ったことよ」 「ああ本気。本気だよ」  けだるさと諦《あきら》めの気持の中で雄介はそう言ってうなだれた。 「酔ってんでしょう」  いぶかしそうに須麻子が呟《つぶや》いた。 「酔ってるから、本当のことが言えるってことがあるんだぞ」 「そう……」  心なしか青ざめて見える須麻子の横で、雄介の胸はもっと青ざめて沈んでいた。  危険な情事  彼はその映画を格別に観たいとは思わなかった。映画と名のつくものはこの十年来、テレビの洋画劇場みたいなので時々観る程度だし、それもコンバットものに限られていた。恋愛ものというのは、必ずセックスシーンが出てくるので、そういうものを家族の者たちと観るのは嫌だし、映画館で不特定多数の他人と、性的興奮を共有するのも、何か覗《のぞ》き見的で妙に白けるものだと思うからだ。第一、彼は映画館そのものが好きではなかった。暗いし、空気は悪いし、何というか、あまりにも多人数で共同体験をするということ自体、気味が悪いと思うのだ。  彼女から誘われた時も、だから、「映画? いやだよ俺《おれ》」と、断ったのだ。けれども彼女はもうロードショーの指定席を二枚買っちゃったから、と言った。 「前評判が良くて、指定券買うの、大変だったのよ」  他に特別の予定もなかったので、彼は肩をすくめてOKをした。食事をして彼女の部屋に行って、終電に間に合うように帰るという習慣が、もう四ヵ月ばかり続いていた。 「いいけどさ」  と彼は言った。「そのかわり、夕食かアレかどっちか割愛だね」 「と、思ったんで、ハンバーガー買ってあるのよ」  と彼女は、隣の椅子《いす》にバッグと並べて置いてあった紙袋をもち上げて見せた。  彼は、どちらかというと美味《おい》しいものを食べて、アッチの方をはぶく方がいいのにと思った。ハンバーガーで夕食を済ますなんて、なんとも味気ないような気がした。  コーヒーがまだ半分残っているのに、彼女は腰を上げた。そうしないと七時の最終回に間に合わないからだ。彼は伝票をつかんで、彼女の後に渋々従った。  四谷から新宿の「武蔵野館」までは、タクシーで行った。下りる時、彼がポケットを探ってもたもたしている間に、女の方がさっさと小銭を出して、料金を支払った。  彼は口では「すまんね」と言ったが、本心ではそれほど気にしていなかった。勤務年数十二年のキャリアウーマンだから、相当の月収がある。その上住んでいるマンションは、親が残してくれたもので、家賃がかかるわけではない。おそらく女房子持ちの彼よりも、自分で使える小遣いははるかに多いはずである。  エレベーターを昇り、ドアが開くと、いきなり映画館だった。ちょうど前の回が終わったばかりの入れ替え時とあって、ものすごい混雑ぶり。それに圧倒的な若い女の数。 「ちょっと」  と彼は人波に押されながら彼女の袖《そで》を引いた。 「一体、俺たち何を見るんだ?」  彼女は映画のタイトルを口にして、フフフと笑った。 「え? 恋愛映画なの?」  彼は激しく渋面を作った。ここまで来てから知るなんて自分でもうかつだったと反省した。 「違うわよ。あなたが一番好きなスリラーよ」  揉《も》みくちゃになって切符をもぎってもらいながら彼女が答えた。 「俺が好きなのは戦争もの」 「じゃ二番目」 「勝手に二番目なんて作るなよな」  前へ前へと押されながら、彼は言い返した。  それにしても若い女たちというのは、すごいエネルギーである。朝の満員電車に男が半分いるおかげで、これまで生きのびて来られたのではないかと、彼はひそかに確信した。 「ねえ、コカ・コーラ、買って来てくれない?」  彼女が首だけねじむけて彼に頼んだ。そこで二人は別れ別れになった。  長い行列に並んで、十五分もかかってコーラを二つ買うと、始まりのベルが鳴った。彼が場内に入ると、もう暗くなっていた。とたんに彼は腹立たしくなり、そのまま踵《きびす》を返して帰ってしまいたいという誘惑にかられた。超満員のどこに彼女がいるのか、どう探せばいいのか。暗がりに眼がなれたところで、見まわせど、どれも似たような黒い髪の女たちの背中ばかりである。  そうか、指定席と言っていたな、と、彼は帰ってしまいたい誘惑をなんとか退けると、白いカバーの一帯に眼をやって歩を進めた。スクリーンでは、コマーシャルが映されていた。  白いカバーの中で、ひとつだけ、こちら向きの顔があった。彼が遅いので、やきもきした彼女の顔だった。  コーラの入ったプラスティックのカップを両手に、彼は恐縮して言った。 「失礼します」  すでに坐っていた人々は、あきらかに迷惑気に、足をずらしたり、中腰になったり、中には完全に立ち上がったりして、彼を座席の奥に送りこんだ。  一人の若い女が、ほんのわずかに足をずらしただけだったので、彼は膝《ひざ》をはさまれる格好で立ち往生した。後ろの席であからさまな舌打ちの音がしていた。若い女がもそもそと、ようやく尻《しり》を上げたので、前の座席とその女の膝にはさまれていた彼の膝も解放された。コーラを誰かの服にこぼさなかっただけでも、めっけものだった。  ようやく彼女のところまで来て、彼はドスンと座席に腰を沈めた。 「遅かったじゃないの」  と、彼女は無慈悲な声で、そう彼を批難した。「苛々《いらいら》しちゃった」 「遅れたのはな」  と彼は押し殺した声で言い返した。「エレベーターで下へ降りたからさ」 「何のためによ?」  暗がりで女が眼を見張るのがわかった。その顔が、焼き肉屋のコマーシャルフィルムからのどぎつい反射で、赤く見えた。 「帰っちまおうと思った」  彼は嘘《うそ》を重ねた。 「どうして……?」  コーラを受けとった手の仕種《しぐさ》のまま、彼女は呆然《ぼうぜん》として訊《き》き返した。 「どうしてかな」  どうして本当に帰ってしまわなかったのかな、と思いながら、彼は呟《つぶや》いた。 「ずいぶんひどいじゃないの。私を置き去りにするなんて」 「だが戻って来たろ。いいじゃないか」 「よかないわよ」  その時、背後から「シイ!」という声がして、二人を黙らせた。彼女は膨れて、彼は憮然《ぶぜん》として、スクリーンを見上げた。映画の予告に入っていた。  映画が終わった。まだ字幕スーパーで出演者などの名前が流れているうちに、彼はパッと腰を上げた。それから余韻を味わうように坐っている若い女たちの膝を、押しのけるようにして通路に出た。彼女が慌てて後を追った。  彼としては、電気がついて、人々がいっせいに動き出す前に、映画館を出てしまいたかった。同じ思いの人がいるとみえて、エレベーターの前には列ができつつあった。彼はさっと左手の階段に向かって歩きだした。 「待ってよ」  と彼女が追いついて来て言った。「まさか、九階から全部階段を降りるんじゃないでしょうね」 「途中からエスカレーターがあるよ」 「どうしたのよ、映画面白くなかった?」 「いや、なかなかためになったよ」  彼は皮肉を隠そうともせず、そう言った。 「たとえば?」  彼の腕につかまりながら、彼女は階段をゆっくりと降り始めた。 「たとえば」  と彼はちょっと考えた。「ほら、浮気して男が家に帰って来るだろ? 奥さんが実家かどこかへ行って二晩ほど留守にした時さ。ベッドをいかにも、眠ったようにくしゃくしゃにするシーンとかさ」 「それだけじゃ足りなくて、実際ドスンと寝てみて、むちゃくちゃに寝返り打ったりね」  女は映画のシーンを思い出しながらクスクスと笑った。 「あのシーンは、すごく参考になったよ」 「身に憶《おぼ》えがありそうね」  女は探るように彼を横目で見た。階段を七階まで下って来ていた。 「まさか。俺《おれ》、自宅に浮気の相手なぞ、引っぱりこむような趣味ないぜ」  そう言ってしまってから、彼は眼の隅で女をうかがった。 「浮気の相手ね。……それ、私のこと?」  案の定、彼女はとたんに神経質に反応した。 「君が単なる浮気の相手じゃないことくらい、君自身が一番知ってるだろうが」 「念のために、一応訊いてみただけよ」  と彼女が言った。「私だって、あなたの家庭の中なんて、死んでも見たくないもの」  二人は六階から五階までの間を、無言で降りた。灰色のコンクリート壁に、白いタイル風の階段が、蜒々《えんえん》と続いていた。 「エスカレーターって、どこよ?」  と、女が訊いた。 「あと一階下ったところ」  彼が答えた。 「他にも参考になったこと、あった?」  再び彼女は映画の話に戻った。 「うん、まあね」 「何?」 「電話のシーン」 「どの電話?」 「もしも奥さんから電話があったら、日曜日の午前中家にいないのは不自然だろう? それで先手を打って、男が自分の方から電話をするシーンさ」 「そんなところ、あったっけ?」 「ほら、電話してなに気なくこう言うところさ。『さっき、電話くれた?』って男がまず先手を打つんだよ。奥さんが『ううん、どうして?』って言う。男はすかさず『いやね、シャワーを浴びてたから。電話が鳴ったような気がしたものだから、君かと思って』『わたしじゃないわ』『ならいいんだ。君、何時に帰る?』というようなやり取りさ」 「ふうん、男のひとって案外、観察が細かいのね」  と彼女が感心した。 「普通だったらさ、ただ、先手を打って自分の方から電話することくらいは考えつくけどね、そういうのはかえってヤブヘビになる場合が多いのさ」 「あら、経験があるみたい」 「あるよ、もちろん」  彼は肩をすくめた。「普通は平気で午前様しててもさ、浮気する夜ってのはなんとなくね、電話して『マージャンで遅くなる』なんて言っちまうことがある。マージャンで本当に遅くなる時には、そんな電話、まず掛けやしない。女房ってのは、そういうのに、ひどく敏感でね、怪しいとピンと来るらしい」 「なんとなくわかるわ」  女は苦笑した。 「さっきの映画の中の男が頭がいいのは『君電話した?』ってまず訊くところ。それから、もしかして妻が電話をしていても、シャワーに入っていたから、聞こえなかったと、暗黙に相手にわからせているところ。これは高等戦術だよ」 「そうね。今後のために、せいぜい覚えておくわ」 「お互いにね」  四階はデパートのような売り場に通じており、二人は店内をエスカレーターに向かった。 「私ね、あの仕事に生きる独身の女の言っていること、すごく良くわかるわ」 「多分、俺があの家庭持ちの中年男の気持が良くわかるように、君もあの女に感情を移入するんだろうな」  彼は理解を示そうと、そう言った。二人はエスカレーターに並んで立った。 「あの女のこと、どう思う?」 「アメリカの女はすさまじく孤独なんだなと思ったよ」 「それだけ?」 「だってあれは、一種の病的な女だろ? あきらかに精神を病んじまっているよ。だからあんまり現実的じゃないよね」 「あのひと、病気じゃないわ」  彼女はふっと真顔になって言った。「あのひとの言っていること、最初から最後まで、見事に正論だった」 「おいおい待ってくれよ。俺はそうは思わない。第一、あれが正論じゃ男はかなわないよ」  三階。レディスのドレス売り場。二人は二階へ下るエスカレーターに乗りかえる。 「自分の方から誘惑しておいてだぜ、大人の関係よ、とかなんとかいかにも割り切ったようなことを言っといて、あの翌朝の態度はなんだっていうんだよ? 冗談じゃないと思ったぜ」 「寝てる間に黙って帰っちゃったからよ。一緒に朝ごはん食べたかったんじゃないかしら」 「男ってものは、一夜明けたら情事の相手の女の寝起きの顔なんて、まともに見たくもないものなのさ」 「それで、私のところに決して泊まらないのね」 「おいおい、話を脱線させるなよ。第一、あれはないよ。スパゲッティーだかなんだか食わせておいて、男が帰ろうとすると、いきなり手首を切るなんて、完全に狂ってるとしか思えない」 「だって、最初の夜はいいとして、二日目も朝からずっと一緒だったのよ。男は犬まで連れて来たのよ」 「それはだね、彼女がしつこく電話で呼び戻したからさ。渋々行ったんだ」 「でもね、公園で犬とボールでたわむれていた時、男は楽しそうだったわ」 「そりゃ、ま、せつな的には楽しんだだろうさ」 「スパゲッティーを料理して、マダムバタフライを聞きながら、キャンドルライトで夕食をしている時も、彼の顔はロマンチックだったわ」 「それは否定しないが」  と彼はもぞもぞと言った。エスカレーターは二人を一階の香水売場の近くに降ろした。 「ここ、ずいぶん遅くまで開いているんだな」  と彼はあたりを見回した。 「駅前だから。十時までよ」  と彼女はそれに答えた。 「だからって、なんで手首切ったりして、男を脅迫するんだい? たまらんよな、男の身になって考えれば」  彼はさも不快そうに話の続きをした。「逢《あ》ったばかりの女だよ。いわば行きずりみたいなもんだ。そんなのに絡まれちゃ、交通事故にあったようなものだね」 「でもね」  と彼女はやけに静かに言った。「行きずりは前の晩のことよ。翌日の日曜日、犬を連れて女のアパートに行ったのは、もう行きずりの関係とは言えないと思うわ」 「冗談言っちゃいけない。電話でさんざんゴネて来い来いと言われて、男は渋々だったんだ。そうだろう? 君にだってあの時男がちょっとたじたじだったの、わかるだろう」 「ええ、わかるわ。だけど、彼にとって、家庭とか、妻とか子供がほんとうにそれほどまでに大事だったら、断固として行くべきじゃなかったのよ。誘惑をきっぱり退けるべきだったのよ。でも、彼は行った。犬を連れて」 「犬が特別に意味があるのかい」 「あるわ。あの場合犬というのは、あの二人の共犯者なのよ。愛の物言わぬ目撃者。そう女は感じたんだわ。彼は犬を連れて来た。二人は子供のように犬を仲介にして触れあった。もしも、彼が家庭を大事にするのなら、そんなことをしてはいけなかったのよ。あの男には断固とした強さが欠けていたのよ。男の優柔不断さが、ある意味で彼女をあんなふうにしてしまったのかもしれないわ」  デパートの外に出ると風が吹いていた。生温い、胸の中がざわつくような春の埃《ほこり》っぽい風だった。彼女は髪を押えて、一瞬|茫然《ぼうぜん》としたように男の傍に立ちすくんだ。 「あんな女は例外さ」  と彼はきっぱりと言った。 「それ、あなたの希望的観測ね」 「いや。現実に、あんなめちゃくちゃな女がいたら、たまらんよ。手首切ったり、夜といわず昼といわず嫌がらせの電話をしてきたり——」 「そのことだけど、私もひとつだけ参考になったことがあるわ」  と女は奇妙な口調で言った。「男が冷たくなったら、男の自宅に真夜中、電話をするっていうこと——」 「冗談言うのはよせよ」 「もちろん冗談よ」  と女は少し笑った。 「だからさ、兎を煮たり、包丁をふりまわしたり、正気の沙汰《さた》じゃないっていうんだ」  彼はあきらかに苛立《いらだ》って言った。 「あなたは、完全にあの男と同じ被害者の意識で彼女を見るから、そんなことを言うのよ」 「へえ、別の見方があるのかね?」 「あるわ。彼女の立場に立って見れば、あの中の異常な行為は、全て理解できるわ。男のあいまいさ、ずるさ。夫婦のなれあい。結局、最後に妻は男を許しちゃうんでしょ? めでたしめでたし、二人は永久に幸せに暮しましたとさ、ってわけね? そんなのインチキよ」  彼は不意に彼女を眺めた。まるで初めて見る女のような気がした。口の周囲に微《かす》かな疲れの皺《しわ》が浮きでていた。 「あの女が、まさか正常だっていうんじゃないだろうね」  彼は彼女から眼を背けながら言った。 「正常じゃない部分があるとしたら、それは製作者側のサービスの問題で、一種サイコ仕立てにして、映画を売り出そうとしたからに過ぎないわ。だから、水を張った風呂の中で死んだと思った女がいきなり飛び出してくるシーンは、完全に蛇足。あれは全てをぶっこわすような最低のシーンよ。それをのぞけば、あの女は、どこにでもいるような女の一人にすぎないわ」 「どこにでもいるって?」 「そうよ、私だって、いつあんな風になるか、自分でも怖いくらいよ」 「おどかすなよ」  彼は貧相な感じに首をすくめてみせた。  二人は駅の方へ歩き、タクシー乗り場に向かった。すでに十人ほどの行列ができていた。埃っぽい旋風《つむじかぜ》が、ビニールや新聞紙を巻き上げながら通り過ぎていった。 「厭《いや》な風ね。春って嫌いよ。胸がざわざわするわ」  彼女は空《うつ》ろな声で言った。その声の調子に彼は不安を覚えて、チラと横顔を見た。 「桜、そろそろかな」  彼はわけもなく夜空を振りあおいだ。晴れているのに星の少ない夜だった。 「ねえ、お花見に、吉野に行かない?」  急に彼女は表情を輝かせた。 「吉野? なんでまたそんなところへ」  男は気乗り薄にそう言った。 「吉野の桜、一生に一度は見ておきたいのよ」 「だったら一人で行くか、友だちと行けよ。俺《おれ》は、ちょっとな」 「じゃ行かない。あなたと見たかったのよ」 「俺のせいにするなよ。吉野の桜を一度見たいんじゃないのか」 「あなたと、吉野の桜を一度見てみたかったの。それだけ。どうしてもだめ?」 「泊まりは無理だ」 「奥さん、実家に帰ることないの?」 「さっきの映画じゃあるまいし。ないね。両親とも亡くなっているから」  タクシーには一人ずつしか乗らないから、なかなか順番が回って来ない。駅の構内からはアナウンスの声や雑踏の響きがしていた。四谷の方の空が妙に赤味を帯びている。空気になぜか雨の匂《にお》いが混っていた。そして排気ガスの臭い。 「困らせるつもりはなかったのよ」  と彼女は彼の腕に触れた。 「花見なら、東京でだってできるさ」  彼も声を柔らげた。 「じゃお花見一緒にする?」 「いいよ」 「どこで?」 「どこでもいいさ」 「どこでもいい場所ってどこよ?」  男は眉《まゆ》を寄せた。 「どうしたんだよ、今夜。からむじゃないか」 「…………。この風、厭なのよ」  二人は黙りこんだ。あと二人でタクシーの番がくる。中年の男と若い女が、眼でじゃれあっていた。 「高輪のホテルで鉄板焼きでも食いながら、花見するか」  妥協するように彼はそう言った。 「うちのマンションの部屋から、隣の桜の枝が見えるのよ。いっそのこと、うちで酒盛りしてもいいわね」 「ああ」 「なんだか気乗りしないみたい……」 「そんなことないさ」 「今夜、来るでしょう?」  男の答えが一呼吸遅れた。 「そうだな。あんな映画観たせいか、なんだか疲れたよ」 「……じゃ、来ないの?」  女の表情が急に暗くなった。 「うん。またにするよ」  女の顔色をうかがいながら、彼が答えた。  空車が来て前の二人連れがそれに乗りこんだ。乗りこむなり男の手が若い女の太股《ふともも》に触れるのが二人の眼に入った。 「怒るなよ」  彼は彼女に言った。 「だって、先週もよ」 「あの時は風邪気味だったじゃないか」 「でも会社へは行ったわ」 「仕事だよ。一緒にするなよ」 「つまりは仕事は真剣だけど、私とのことはそうじゃないのね」 「そういう論理はくだらんよ。話す気にもならない」 「自分に都合が悪くなると、いつもそうね」 「よそうよ。あんな映画を観たせいで、君は少し高ぶっているんだ」 「そんなことないわ。冷静よ」  空車が来て停った。ドアが開いた。 「先週は風邪。今週は疲れ。来週はどんな言いわけをするつもり?」  彼女はスカートをひるがえして車に滑りこんだ。 「そうだな」  と男は言った。 「来週までの間に、せいぜい言いわけを考えておくよ」  ドアが閉った。女の横顔が硬張《こわば》り、車窓の暗がりの中に白く浮かび上がった。タクシーが動きだして、彼の前から遠ざかった。彼は続いて来た空車に手を振って断ると、盛り場の方へと歩きだした。一杯飲みたいと思った。  泥酔というほどではなかったが、かなり酔って寝室のドアをあけた。妻はとっくに眠っていた。できるだけ物音をたてないように、彼は苦労して衣服を剥《は》ぎ取ると、妻の横に潜りこんだ。  犬とたわむれる男と女のシーンが頭の中でぐるぐる回っていたかと思うと、次の瞬間、彼は眠りに落ちた。  どれくらい眠ったのか、突然の電話の音で、彼は叩《たた》き起こされた。一瞬自分がどこにいるのか判然としなかった。横で妻が寝返りを打った。 「また?」  と彼女はうんざりした声で言った。 「出てよ、あなた。いたずら電話なの。もうこれで今夜四度目よ」 「いたずら?」 「出てもウンともスンとも言わないのよ」  彼は受話器を取り上げると、耳に押しあてた。 「もしもし!」 「…………」 「もしもし! どなた!?」 「…………」 「何とか言ったらどうだい? 一体何時だと思ってるんだい」 「…………」 「もしもし!」  相手が電話を切った。彼は腹立たし気に受話器を置いて、ふとんを頭にひっかぶった。眠りはすぐに訪れた。  再び電話の音。妻が横で動物のようにうなった。彼は受話器を取り上げた。映画の中で、女が男の家庭に電話をかけるシーンが、彼の記憶を過《よぎ》った。 「まさか」  と彼は呟《つぶや》いた。まさか、あれが始まるのではあるまいか。 「ええ、そうよ、わたし」  相手はこちらの心を読んだかのように、そう言って、低く笑った。  壁の月  夏の間あれほど賑《にぎ》わった避暑地は、嘘《うそ》のようにひっそりとしている。もう秋。  木立の間に見え隠れしている別荘はどれも鎧戸《よろいど》を固くおろし、木洩《こも》れ日の中を黄色く色の褪《あ》せた落葉が、絶えず身をひねりながら舞い落ちていく。  落葉は都志子の肩にもふりかかる。頬《ほお》をかすめる時、乾いた微《かす》かな感触を残して足元に散る。そしてアスファルトの日だまりの上に、まるで剥《は》がれ落ちた金箔《きんぱく》のように横たわるのだ。  風が吹き、無数の金箔が道路から放れて転がって行く。風は淋《さび》しいほど透明で冷たい秋の風だ。  なんでこんなに淋しい風の吹くところへ来てしまったのだろうと、後悔が泡のように胸を塞《ふさ》ぐ。まるで犯罪を犯した人が犯行の現場に舞い戻るように、再びこの道を歩いているのだ。今度は独りで、独りぼっちで。  あの時もそうだった。都志子はずっと独りだった。けれども自分を独りぼっちだと身にしみて感じたのは初めてだった。あの男と知り合うまではそんな感情とは無縁だった。正確には、知り合い、知り合ったすぐその夜のうちに愛しあい、そして翌日には名前も告げあわぬまま別れたのだった。この淋しさはあの次の朝目覚めた時に忽然《こつぜん》と彼女を訪れ、それ以来夏の間ずっと彼女の胸に巣喰《すく》ってしまっていた。  つまり都志子は、犯罪者が犯行現場に舞い戻るように、彼女の恋の現場に帰って来たのだった。そうせずにはいてもたってもいられない差しせまった気持ちに急《せ》きたてられて、秋の週日の二日間、仕事の都合をつけて上野から汽車に乗った。  恋の現場に立ち戻ってどうなるというものでもなかった。ただ二人が出逢《であ》ったホテルのバーと、バーからそれぞれの部屋に通じる薄暗いマホガニーの廊下と、そして二人が愛しあった部屋とを、もう一度見ておきたかった。見て、そして記憶を葬るつもりだった。二人が出逢い、ホテルルームに向かい、愛しあったという痕跡《こんせき》などあとかたもないだろう故に、あきらめられると思った。是が非でもそうしなければ。あの男のことなど、忘れなければ。でないとあたしは、この淋しさのために自分を失ってしまう。  あんなゆきずりの男に恋をするなんて。それも一夜だけのことなのに。名も知らず、年齢も仕事も何ひとつわからないあの男。  朝食を部屋に運ばせて二人でとっている時、彼は訊《き》いたのだ。都志子の名前を。 「そんなこと、意味ないわ」と都志子は咄嗟《とつさ》に答えてしまった。そう言ってしまってからすぐに胸が後悔で痛んだ。本心ではなかった。本心なら逆だった。何もかも知りたかった。どうしたら次に逢えるか、名前は、仕事は、歳《とし》は、妻がいるのか、子供たちがいるのか、どこに住み、どんな趣味をもち、どんな女たちとこれまで愛しあってきたのかといったこと全《すべ》てを。  しかし知ってしまえば、都志子は自分が彼にまとわりつくであろうことが怖かった。電話番号を知れば日に何度も彼に電話をしたいという誘惑と闘わなければならないことを予想して怖気《おじけ》づいた。ただの一度なら、事故みたいなものだと思えばいいのだ。しかし、彼との関係が二度三度と重なると、都志子は必ず彼に深く溺《おぼ》れてしまうだろうと確信した。それは、彼の声の質とか、皮膚の感じとか、男から漂う雰囲気とか、ベッドの中の独得の優しい仕種《しぐさ》とか逆に激しさとか——彼女を小さな子供をあやすみたいにあくまで優しく扱うかと思うと、次には娼婦《しようふ》であるかのように濫用《らんよう》し、荒し、痛めつけるのだった——そういったことからわかるのだ。  男に溺れることを恐れるわけではなかった。男によってはそうなってもかまわないと思うのだ。しかし、あの男には、何か奇妙なひややかさみたいなものが心の中心にカチリとあって、それが都志子を怯《おび》えさせたのだ。  どう説明してよいかわからないが、男はほとんどそのひややかな中心部を隠すことに成功していたが、眼のすみとか、口の端とか、ベッドの中でのほんのわずかな行為の端々とかに、その奇妙なひややかさが、ふと露呈することがあったのだ。  冷たい金属に触れるような、触れたらスッパリと切り傷ができるような、そんな感じなのだった。  そんなこと意味のないことだわ、と都志子が答えると、男は薄く笑った。 「僕は一度でお見かぎりか」  口ではそう言ったが、たいして気にする風でもなく、コーヒーカップを口に運んだ。「つまり避暑地の出来事ってわけだな。よくある話だ」  前の夜彼女の躰中《からだじゆう》を愛撫《あいぶ》した唇に触れるカップから、都志子は思わず眼を背けた。昨夜から今朝にかけてあんなに堪能《たんのう》したのに、あたしはもうひもじがっている……。その認識にひどく恥じて、心にもないことを更に言った。 「あれは、あなたのやり口なんでしょ?」 「何が?」 「一人旅のめぼしい女に、怖い話をしてきかせるっていう手よ」  すると男は、眼に一瞬例のひややかさを浮かべて言った。 「女とやりたければ何も怪談話なんてまだるっこしいことをするまでもないさ。単刀直入に口説《くど》くよ」  それから、男は細めた瞼《まぶた》の間からじっと都志子をみつめた。 「君はどうなんだい? あの話が怖かったから僕と寝たのか? つまりそれだけの理由なのか?」 「もちろん違うわよ」と都志子は鼻の先で軽く笑った。「寝たかったから。昨夜はそんな気分だったから、あなたと寝たのよ」  けれども心のどこかで、それだけが理由ではなかったと、認める声が上がった。やっぱり、あの話は怖かったのだ。  あんな怪談話を耳にした後、とても一人でホテルルームで眠れるわけはなかった。たとえ相手が彼でなく、ヒヒ爺《じじい》であろうと一緒に居てくれると言ったらそうしただろう。いや頼みこんでも隣のベッドで寝かせてもらっていただろう。むろんその後で男と女の関係になるかどうかは全然別の問題だ。  事前にどんな話をしようとしまいと、あの夜、あのホテルのバーで彼と出逢《であ》ったことが問題なのだった。あの最初の瞬間、不思議な胸騒ぎがしたのだった。  ホテルのバーはひっそりとしていた。客たちはほとんど各自の部屋に引き上げてしまったらしく、バーテンダーが一人、薄暗い船ランプの下で夕刊を広げていた。客は都志子だけだった。  避暑地には珍しく蒸し暑い夜だった。部屋には冷房がなく、眠れそうにもなかったので、彼女は地下のバーでバーボンの水割りを重ねていた。バーテンダーが欠伸《あくび》をひとつして、音をたてて夕刊の頁《ページ》をめくった。 「今何時?」  質問をしなければ悪いような気がして、都志子は訊《き》いた。 「十時を少し過ぎたところです」  自分の腕時計をチラとみてバーテンダーが答えた。 「バーは何時まで?」 「十一時半まで開いています」 「いつもこんなに空《す》いているの?」 「そうでもないですよ。特にウィークエンドは混みますし。今夜は妙に暇ですけどね」  そう言って、夕刊から眼を上げると、ひかえめではあるが値ぶみするように都志子を一瞥《いちべつ》した。世界中のバーテンダーに共通のあの素早い一瞥だ。  彼女が仕事でタイにいった時に泊まった大きなホテルのバーでも、ロンドンのホテルでも、パリでもニューヨークでも東京でもそうだったが、ホテルのバーテンダーのその種の眼つきは人種を越えて不思議なほどよく似ている。  客質を見分ける眼だ。アラブの石油成金と王様を見分ける眼、単なる金持ちと貴族を見分ける眼、駈《か》け出しの俳優とマフィアのチンピラを見分ける眼、レディと娼婦《しようふ》とを一瞬にして見分ける眼だ。  都志子は仕事柄一人旅はなれているとはいえ、いつまでたってもこの種のバーテンダーの一瞥は苦手だった。女が一人でバーに入っていくと、躾《しつけ》の悪いバーテンダーは、まるで薄汚い娼婦でもみるように見る。躾の良い方のバーテンダーでも、どうせ男を引っかけに来たのだろうといった態度を鼻のあたりにちらつかせる。  たった今もそうだ。夕刊からチラと上げた短い一瞥で彼はこんなふうに思っているのがわかる。——今夜は、引っかけようにも男がいなくてお気の毒さま——。  そろそろ部屋へ引き上げようかと考えたその時だった。都志子は背中に一種の緊張感を覚えた。人が誰かにじっとみつめられている時に覚えるあの居心地の悪い緊張感だ。  誰かが後ろからあたしを見ているんだわ、と都志子は胸の中でゆっくりと呟《つぶや》いて、その不快な緊張感に耐えた。第六感とか本能を信じるとすれば、その何者かはひどく不快な人物に相違なかった。脂ぎった中年男の人相と躰《からだ》つきが彼女の脳裡《のうり》に浮かんだ。振りむかずに無視すれば、そのうち視線を逸《そ》らすだろうと思った。  ふっと冷気のようなものを首筋から背中に感じて思わず躰を強張《こわば》らせた。誰かがすぐ背後に立ちそれから滑るように隣のストゥールに移動して腰を下ろした。都志子は同じ姿勢のまま眼のすみでそっと様子を盗み見た。男の手が眼に映った。  その手はわずかに青白く筋張っていた。手入れのゆきとどいた清潔な手だった。手を見れば、その男のおおよそのことがわかるものだ。都志子はひそかに苦笑した。 「何か、おかしいですか」  静かだがわずかに笑いを含んだ声で、隣の男が呟いた。 「いいえ、別に」  都志子はそう答えながら初めて男の横顔に視線をやった。やっぱり……。手の感じと男の感じはよく似ていた。脂ぎった中年男とはほど遠い、硬質の横顔だった。第六感も本能もどうやらあたっていなかったらしい。 「ずっと後ろからあたしを見ていたでしょ?」 「おや、背中にも眼があるんですね」  男の方もそれで初めて都志子の顔を見た。二人は視線を素早く合わせた。 「今夜はラッキーだな」 「どうして?」 「こんな時間にここで素敵《すてき》な女性と逢《あ》えるなんて、ラッキーですよ」 「私も同じことを言うべきかしら?」  と都志子は微笑した。 「旅なれていらっしゃるね」 「本当はすれているって言いたいんでしょ?」 「そうは言っていませんよ。旅をしなれている、違いますか?」 「どうしてわかるの?」 「酒の飲み方、会話の間のとり方、ただそうして坐《すわ》っているその坐り方ひとつだけでも、わかる」 「仕事ですのよ」 「旅そのものが?」 「ええ、そういう雑誌専門のライターです」 「趣味と実益が一致して、いいですね、うらやましい」 「趣味ならね」と都志子は苦笑した。 「でも仕事となると、楽しいことばかりじゃないですから」 「なるほど」と男は口をつぐんだ。少しして、「で、今夜は、やはり仕事ですか?」 「それがここは違うの。休暇なのよ。東京があんまり暑いものだから、ついに我慢できなくて逃げて来ちゃったの」 「幸運な女性《ひと》だな」 「そうですか?」  男は黒っぽいスーツを着て、スーツと同じ色合のネクタイをしていた。避暑地なのに正装に近かったが、そんなに気にならないのは、リラックスした着かたと態度のせいらしかった。 「二重の意味で幸運ですよ」と男は言った。「ひとつは、逃げて来れる状況。逃げ出したくとも逃げだせずにじっと東京で我慢している人間はゴマンといます」 「そうね」  と素直に都志子はうなずいた。「フリーでライターをしている者の特権かもしれないわね」 「それともうひとつ」と男が続けた。 「このホテルに空き部屋があったこと」 「知ってるわ。ほとんど満員なんですって?」 「お盆ですからね」男はうなずいた。 「もっともこういうホテルは何かの場合にそなえて空き部屋のひとつやふたつ、かならず確保してあるものではあるんだけどね」  バーテンダーが二人の飲みものをそれぞれカウンターの上に置きながら、例の皮肉で酷薄な薄笑いを口の端に浮かべて引き下がった。あたしが男をつかまえた、と思って軽蔑《けいべつ》しているんだわ、と都志子は考えた。 「あなたも、東京から逃げだして来た口?」  と彼女は、バーテンダーを無視することにして、男に訊《たず》ねた。 「僕は帰省組ですよ。お盆だから」 「あら、この土地の方?」 「昔はね」  男はそう答えて少し遠い眼をした。 「いつもこのホテルに泊まるの?」 「そういうことになるね。もう長年の習慣みたいなものだけど」 「避暑客には見えないわ」  都志子は男の黒っぽい服装に改めて眼をやった。 「結婚式かなにかあったみたいね」 「お盆にですか」  男は少しひややかな感じに答えた。 「でなければお葬式」  軽口のつもりだった。 「ま、当らずとも遠からずってところですよ」  と男は呟《つぶや》き、酒のおかわりのためにバーテンダーに合図した。  二人は少しの間黙って、それぞれの飲みものを口に運んだ。沈黙が長びくと、都志子がそれとなく言った。 「夜になってもこんなにここが暑いなんて。これじゃ東京と変わらないわね。あたし、損しちゃったみたい」 「今年はめずらしいんですよ。ここでは熱帯夜など、めったにないんだが」 「部屋に冷房がないから、今夜は眠れそうにもないわね」  と、つくともなく溜息《ためいき》。 「普段は冷房など全然必要ないんだけどね」  男はきちっとしたスーツを着ているのにもかかわらず、汗ひとつかいてはいなかった。なんとなく汗っぽい自分が、都志子は少し恥ずかしかった。 「それじゃ、僕が何か涼しくなるような話をしてあげましょうか」  と男が静かに言った。 「つまり、怪談? 面白そうね」  都志子はこころもち男の方へ躰《からだ》を傾けて笑った。 「実はね」と男が横顔を見せたまま淡々と語り始めた。「昨夜のことなんだ——」  いつになく眠りにくく、蒸し暑い夜だった。バーで飲んだ後、シャワーを浴び、寝酒にブランディーのミニチュア瓶《びん》をひとつあけてベッドに入った。それからシーツの少しでも冷たい位置を求めてベッドの上を転々としたあげく、いつのまにかうとうとまどろんだらしい。  男はふっと室内の薄暗闇《うすくらやみ》の中で眼をあけた。少し前から、眠りのふちで何かひどく厭《いや》な気分がしていたのだ。  ゆっくりと目覚める過程で、その何ともいえない不快な気分はいっそう強まった。彼をとりかこむ夜気に異変があるような、そんな感じだった。  暗い室内の空気が、かたまりかける寸前のトコロテン液のような半流動体になっていて、吐き気を催すほど濃密にたちこめているようなのだった。  しかも何ともいえぬ不安感、いたたまれないような差しせまった危機感もあった。  男はしばらくの間じっと息を殺して、自分を金しばりにしているものの正体は何なのかと考えた。目覚めの直前まで何かひどく恐ろしい夢でも見ていたのかもしれないと思った。夢の内容は忽然《こつぜん》と記憶から拭《ぬぐ》い去られているが、恐ろしさの金しばり状態だけが肉体に残り続けているのかもしれない、と。  彼はホテルルームの中を、眼だけの動きでゆっくりと眺めていった。  そのうちに、何かが妙だと思った。そう感じたとたん、背筋にそって生毛《うぶげ》が逆立った。電気は全《すべ》て消してあり、カーテンがぴったりと閉じているのにもかかわらず、室内が仄白《ほのじろ》いのだった。  それは不思議な仄白さで、ナイトテーブルや椅子《いす》や、その椅子の上に脱ぎ捨てた彼の衣服や、壁の上のマチスの複製画などを、浮き上がらせていた。  まるで月光に照らされているみたいな光景だと、男は頭の片隅でぼんやり考えた。むろん、カーテンが閉じているから、仮りに外は月夜だとしても、月光が射《さ》しこんでくるはずはないのだが。  室内の物体の輪郭はくっきり浮かび上がっていたが、そのどれもが蒼白《あおじろ》く色彩を失っていた。男の胸は得体《えたい》の知れないせつなさで満たされていた。  彼は視線を壁に沿って這《は》わせて行った。バスルームに抜ける通路の上部の壁のところで、男の視線はぴたりと釘《くぎ》づけになった。  壁と天井の境目のあたりに、月が掛かっているのだ。男は一瞬、狐《きつね》につままれたような気持ちになって、その月を眺めた。三日月だった。鎌のような鋭い月であった。  なぜ月が室内に? と彼は思わず口に出して呟《つぶや》いたほどだった。それほど突拍子もなく奇妙なことだった。  最初は何かの反射だろうと考えた。しかしカーテンはあくまでもぴったりと閉じているのだった。あと考えられるのは、これは夢の中の出来ごとだということだ。  時々、ああこれは夢なのだと思いながら夢をみていることがある。それと同じだ。夢なら覚めるだろう、と、彼は頭を振った。馬鹿みたいに頬《ほお》をつねってもみた。  頬をつねると痛かった。とすると夢ではないのかもしれない。細い三日月は一種すごいような蒼白《あおじろ》さをたたえて、まだ壁の上部に掛かっているのだった。  よく眼を凝らすと、月面のクレイターらしきものの一部までうっすらと見えるのだ。よく晴れた夜空の月がそうであるように。  はて、なぜ月が室内に掛かっているのだろうか、と男はもう一度自分に問いかけた。なぜなのだ。何かの反射でもなく、夢でもないとすると、あれは何なのだ?  悪寒《おかん》のようなものが走りぬけたと同時に、笑いが突き上げてきた。なんとも理解しがたい奇妙な状況に接すると、もう笑ってしまうしかないという状態だ。  男は室内の淡い月光に照らしだされながら、一人で声を殺してクスクスと笑った。  笑いを口のあたりに残しながらベッドを抜けて窓へ寄った。カーテンを押し開き、夜空を見上げた。夏の霞《かすみ》のかかったような夜の空に、ぼんやりと輪郭をみせて、月が掛かっていた。その月は三日月ではなく半月であった。  男は振りかえって、室内の月をもう一度みた。壁の上の月はいっそう蒼ざめて、冴《さ》え渡っているのだった。変だな、外の月より、この部屋の中の三日月の方が本物に見える。そう男は呟《つぶや》いた。  二つの月を見たために、彼はひどく気分が悪くなった。船酔いのような、二日酔いのような気分で、脂汗が滲《にじ》んだ。男はバスルームに急ぎ、便器の中に少し吐き、それから冷水でシャワーを浴びた。  冷たいシャワーのおかげで、気分は嘘《うそ》のようによくなった。たっぷり眠った後の目覚めのように爽快《そうかい》だった。  鼻唄《はなうた》でも歌いたい気分でひき返してみると、しかし壁の月はまだ依然としてそこに掛かっていた。出かかった鼻唄がひっこみ、彼は憮然《ぶぜん》として再びベッドに横たわった。  ずいぶん長いことそうして彼は三日月を睨《にら》みつけていた。そして眠りが訪れるのを待った。しかしどう考えても部屋の中に月が掛かるのは妙なことなので、そのために彼は眠れそうにもなかった。  どれだけ時間がたったのだろうか。男は喉《のど》に渇きを覚えて、首をナイトテーブルに振りむけた。ナイトテーブルの上には、水差しとグラスが置いてあった。水差しに手を伸ばしかけた瞬間であった。グラッときた。  地震だと思い咄嗟《とつさ》に動作を止め様子をうかがった。かなり激しい揺れだった。  男はベッドから降りようと身を起こしかけて、おやと思った。  天井から下がっているランプは微動だにしていないのだ。ベッドがガタガタと音をたてて上下しているのに変だな、と何気なくナイトテーブルを眺めた。水差しの中の水も、全く水平で、揺れていない。  そのうちにベッドの上下動に横揺れが加わった。ベッドの両ふちに手をかけて躰《からだ》を支えないと振り落とされそうだった。男はベッドにしがみついた格好で、地震が終わるのを待った。  ベッドはまるで荒れ狂う大海の中の小さなボートみたいに揺れ始めた。何メートルもある大波に持ち上げられたかと思うと、奈落《ならく》のような海底に落ちていくあの感じとそっくりだった。変じゃないか、理屈に合わないじゃないか、と呟《つぶや》くのがやっとで、ベッドから放り出されまいと彼は必死だった。  気の遠くなるほど長い時間彼はあばれまわるベッドにほんろうされていた。  疲労|困憊《こんぱい》してほとんど気を失いかけていた。  ふと気がつくと、地震は終わっていた。ベッドはもはやカタリとも揺れなかった。  今のは何なのだと、男は、またしても声に出して呟いてみようとしたが、声はしゃがれて出なかった。地震なら、ランプが揺れるだろうが。水差しの中の水が波をたてるだろうが。  揺れていたのは、ベッドだけだった、という認識が彼を襲った。ベッドが生きものみたいに暴れたのだ。次の瞬間男はベッドから転がり降りた。  壁と天井の境目には、月がまだ掛かっていた。何だこの部屋は!? 男の眼が廊下に通じるドアをとらえた。彼はドアに駈《か》け寄って、さっと押し開いた。  と同時に廊下から生温い厭《いや》な風が吹きこんだ。男は一瞬|怯《ひる》んだ。次に思い切って顔を突きだした。  多分、他の部屋でも地震で眼が覚めたのだろうか、いっせいにドアが廊下にむけて同じように開かれていた。そして同じように人々の頭が突きだされていた。  男は右の方を見ていたので、同じように向こう側を見ている人々の黒い後頭部が、数えると七つばかり見えた。彼はあわてて今度は左の方を見た。  と、左側の泊まり客がいっせいに向こうへ頭をひねるのが見えた。部屋数は五つ。五つのドアがいっせいに開いており、彼同様左の方向を眺めている人たちの、やはり後頭部が五つ見えた。  その階は四階であった。廊下の片側にだけ部屋が全部で十三室あるわけだった。男はもう一度首をねじって、最初の右方角を眺めた。すると七人の人々の顔がじっと自分に注がれた。背筋がぞうっと凍りついた。七つの顔はのっぺらぼうであった。  とたんに舌が喉《のど》の方にむかってめくれ上がった。男は反射的に左側をチラと見た。五つののっぺらぼうが彼の方を見ていた。男はドアを力一杯閉めてその場に尻《しり》もちをついた。 「大の男がと君は笑うかもしれないが」と男は話し終わると都志子に言った。「あの時は完全に腰が抜けたね」 「それでどうしたの?」 「部屋から一歩も出なかったよ」 「その夜は寝なかったの?」 「あのベッドの上で?」 「月はどうしたの?」 「夜が明けると自然に消えた」 「それをずっと見ていたの?」 「他に何ができる?」  男は憮然《ぶぜん》として言った。 「ほんとうにのっぺらぼうだったの?」  と都志子は疑り深い口調で訊《き》いた。 「僕が嘘《うそ》をついていると思う?」  男はひんやりとした眼で都志子を見た。 「右の部屋も左の部屋も、全員正真正銘のっぺらぼうだった」  と男は断言した。 「その時、あなた鏡でご自分の顔を見ておけばよかったのに」と都志子は少しからかうような口調で言った。「鏡に映ったあなたの顔も、のっぺらぼうだったりして」  男は笑わなかった。 「あたし思うんだけど」と都志子は、ゆううつそうな男の横顔をチラと見て続けた。「結局、夢だったんじゃないのかしら」 「どこからどこまでが?」  と、いよいよゆううつそうに男が呟《つぶや》いた。 「初めから終わりまで。壁に掛かっている月を見たところから」 「頬《ほつ》ぺたを力一杯つねったんだぜ」 「でも眼がさめなかったのよ。よっぽどぐっすり眠っていたんでしょうね」  男はグラスの中の氷とウィスキーを眺めていたが何も言わなかった。  バーテンダーがわざとらしく腕時計を見て、二人の前から水や氷を片づけ始めた。男は伝票を取り上げるとストゥールを降りた。 「お部屋、替えてもらったの?」 「一応頼んではみたんだけどね」と勘定を払いながら男が答えた。「シーズン中なので空き部屋はもうないって断られた」 「その空き部屋にあたしが入っちゃったから」  二人はそれとなく並んでバーの外へ出た。 「今夜も、お部屋の壁に月が掛かると思う?」 「確かめに来てみる?」  さりげなく男が訊《き》いた。 「のっぺらぼうなんてみたことないから、見てみたい気もするわね」 「じゃおいでよ。ベッドは二つある」  都志子は立ち止まり、男を見上げた。清潔そうで、どこか信頼できそうだった。 「じゃ行くわ」と都志子は呟いた。「でも誤解しないで。好奇心に勝てないのよ、あなたの魅力に負けたんじゃないわ」 「ということにしておこう」  男はようやくニヤリと笑った。  二人は暁の白さの中で、ようやくまどろみ始めていた。ベッドは乱れシーツは皺《しわ》だらけだった。上掛けの毛布はどこかに行ってしまって、なかった。ベッドの上だけでなく、室内はまるで戦場のようだった。愛の戦場だわ、と、眠りの中へ落ちていく寸前、都志子は心の中で呟いた。あたしたちは死闘をしつくしたみたいに、疲れ果てている。 「ねえ、もう眠った?」  かすれた声で都志子は男に話しかけた。 「眠りかけていたところ」  ぬるくけだるい声で男が答えた。 「やっぱり、夢だったのよ、あれ」 「あれって?」 「三日月とか、のっぺらぼう。出なかったわね」 「……ああ」  男は眼を閉じたまま、短く答えた。 「それとも、作り話?」  都志子は男の鎖骨のあたりに額を押しつけながら言った。「作り話で、あたしを誘惑したの?」  それに答える男の声はなかった。男は眠っていた。  再び訪れたホテルのロビーには人気はなかった。夏にはあんなに混んでいたテラスにも、誰もいない。恋の現場に舞い戻ってきたのに、どこか別の場所へ足を踏み入れてしまったみたいな気持ちだ。思い出は心の中にしまっておくべきなのだわ、と都志子はもう一度思った。過去を掘り起こしてはいけないのかもしれない。  あの男と、あの激しい一夜のことを、忘れるために、葬るために、ここに来たはずだった。けれども人気のないロビーに立ったとたん、この旅の目的がはっきりとしたのだった。葬り去るためなんかではないのだ。再現するためなのだ。八月のお盆の時に、四階の四〇六に泊まっていた男の名前と住所とを何としてもフロントで訊《き》きだすために、あたしははるばる季節外れのこのホテルに来たのだ。  そう認めてしまうと、はるかに気持ちは楽になった。あの夜以来、一刻も忘れることができなくなったあの男の住所を探しだすために、自分は来ているのだ。 「もしできたら四階の四〇六号室に泊まりたいんですけど」  と、都志子はフロントの係に申し出た。 「よろしいですよ。空いていますから」  係の男は無表情に答えた。その顔を見ると都志子は咄嗟《とつさ》に男のことを訊《たず》ねかねた。あとでまた機会を見て聞くことにしようと思った。少し顔なじみになり、愛想よくしておいた方が聞きだしやすいかもしれない。フロントの係から渡されたキーを持って、都志子は部屋に向かった。  四〇六号室のドアを押し、中に入り、都志子は二人が使ったベッドを見下ろした。あの夏の一夜の二人の姿態がまざまざと脳裡《のうり》に蘇《よみがえ》った。都志子の躰《からだ》がぐらりと揺れた。胸がしめつけられるように痛んだ。  都志子は夕方までホテルの周囲を散歩して歩いた。落葉を踏みしめながら、あの夜とあの男のことだけを思っていた。  秋の陽《ひ》が沈むと部屋に戻り、バスを使い着替えて下に降りた。  ゴルフ客が全部で十人ばかり食堂で談笑しているのが見えた。夕食の前に軽くアペリティフをと思い、地下のバーに降りた。  バーテンダーは同じ男だった。 「今晩は」  と都志子が言った。 「いらっしゃいませ」  男はひかえめに言い、それから都志子の顔を思いだして笑った。 「夏に一度いらっしゃいましたね」 「ええ、お盆の時に」 「その時もお独りでしたね。独り旅がお好きなんですか?」 「まあね」  と都志子はあいまいに答えた。 「たしか、お好みはバーボンでしたよね」  夏の頃《ころ》とは対照的に、バーテンダーは愛想がよかった。よほど退屈していたのだろうか。 「まあ、よく覚えているのね」 「それが私の商売ですからね」  バーボンの水割りをバーテンダーが作るのを見守りながら、都志子はできるだけさりげなく言った。 「ほら、あの夜、この席に坐《すわ》った男のひとのこと覚えている? のっぺらぼうの話をここでしていたひとよ」 「のっぺらぼう?」  バーテンダーがきょとんとした顔をした。 「あなた、そこで聞いていたじゃない、一緒に」 「覚えてませんねえ」 「お盆の時よ。他にお客は一人もいなくて、あたしと、そのひとだけだったわ」 「確か」  とバーテンダーは遠くを見るような眼をして言った。「あの晩、お客さまは一人でしたよ」 「だから、あたしとそのひとと」 「いえ、おたくだけでしたよ、そう思いだした。やけに暇な夜だもんで、早く閉めたかったんですよ。おたく一人だから、悪いけど早く帰らないかなってそんなこと考えたの覚えてますよ」  人の記憶がいかにあてにならないか、その良い例だった。人の飲みものの名前は覚えているのに、と都志子はおかしいような、ふに落ちないような気分だった。 「で、それがどうかしましたか?」  とバーテンダーが都志子の飲みものをカウンターに置きながら訊《き》いた。 「いえ、別に。ただ、覚えているかなと思っただけよ」 「記憶にないですねぇ。あの夜は絶対お客さまはおたく一人だけで、そうだ、その同じ席にずっと坐《すわ》っていたでしょう?」 「でもあのひと、三泊したはずなのよ。その前の夜もバーで飲んだって言ってたから。そうだわ、ほら、暑い時だったのに黒っぽいスーツ着てた人よ。ネクタイも黒っぽかったんで、あたし、お葬式帰り? なんて訊いちゃったもの」 「黒いスーツねぇ」  とバーテンダーは首をひねった。  都志子はあきらめてバーボンを喉《のど》に流し込んだ。  バーテンダーが彼のことで何かを覚えていたら、少し話してみたかっただけだ。あの男のことについてなら、どんなささいなことでも知りたかった。 「おかわりなさいますか?」  と、バーテンダーが訊いた。 「いえ、食事前だから。またあとで来るわ」  と言い残して、都志子はバーを出た。  食堂へ向かう前にフロントに寄った。バーテンダーがあんまりきっぱりとあの男の存在を否定するので、多少は腹が立ってもいたのだ。 「あの、お願いがあるんですけど」  フロントの係は先刻とは別の男だった。 「なんでしょうか」  と微笑を浮かべる。感じは良さそうだ。 「実はこのお盆にあたくし、ここに泊まったんですけど」 「は、まいどありがとうございます」 「ああ、いえ。……その時に、写真を撮ったんですの、ここにお泊まりの方が何人かご一緒に写ってるんですけど」  都志子は背中をしたたり落ちる汗の感触に顔をしかめた。 「写真ができたらぜひ送って下さいって名刺頂いたのに、それ失くしちゃったの。約束を破るのも嫌だなと思って……あの、四〇六号室に、お盆の三日間泊まってらした方ですわ」 「お盆の三日間ですね?」  と係の男は宿泊者名簿を開きながら訊《き》いた。「お名前は?」 「それが名刺を失くしたものですから」  フロントの係はチラと眼を上げた。 「四〇六号室ですね?」 「すみません」  おそらくそれはルール違反なのだろう。しかし係の男はなぜか都志子を信用することにきめたらしかった。 「おや」  と男は呟《つぶや》いた。「四〇六号室は、お盆の三日間空き部屋になってますねえ、おかしいな」 「そんなはずありません。ちゃんと泊まっていました」 「しかし、ホラ」  と係は台帳を示した。 「でも、お盆の頃《ころ》は全部|塞《ふさ》がっていたと聞きましたけど」 「私もそう思ったんですが」  係は台帳を閉じながら言った。「急なキャンセルでもあったんでしょう」 「何かのまちがいですわ」  都志子の顔色が変わった。「だってあたし、四〇六号室に泊まっていた方と一緒に……」と言いかけて不意に口をつぐんだ。フロント係の眼が光った。 「記録によりますと、あの部屋はお盆の間三日間、空き部屋でした」  それが結論であるというような言い方だった。 「つけまちがいということもあるわ。念のため他の部屋も調べて下さい。男性一人で泊まったんです」  フロント係はしぶしぶと台帳に眼を通した。 「お盆の頃《ころ》の一人客は、女性の方がお一人だけですねえ」 「それは、あたしよ」 「しかし、男性の一人客は全くありません」 「でも変よ、じゃあそこに泊まっていたのは誰なの?」  思わず悲鳴のような声を都志子があげた。それではあの夜起こったことは何なのだ? 都志子を抱いたのは誰なのだ。部屋中を愛の戦場みたいにした男は? 朝、一緒に遅めの朝食を二人で食べたではないか。  しかしフロント係の男は、逆に批難《ひなん》するような表情で都志子を見返すのだった。 「ユーレイでもみたんじゃないですか」  冗談のつもりだろうが、それにしても悪い冗談だと都志子は思った。  彼女はすっかり頭が混乱していた。食欲などとっくになくなっていた。気を落ちつけるために、自分の部屋に戻った。  そうよ、この部屋よ。まちがいないわ。あの人の部屋だったわ。あの人は確かにこの部屋で三日間を過ごしているのよ。  だが、フロント係の口調は断固としていた。お盆の三日間四〇六号室は空き部屋だった、と。それに男性の一人客はなかった、と。  そして、あのバーテンダー。彼もあの男のことを否定した。  とすると、あの夜のあの男はこのホテルに一度も存在しなかったということになる。フロント係とバーテンダーの言葉を信じれば、だ。  そんなバカな、と都志子は頭を激しく振った。あたしが知ってるもの。あたしが覚えている。あたしの躰《からだ》が、あの男をしっかりと記憶している。  都志子はあの夏のあの夜愛しあった同じベッドに横たわって固く眼を閉じた。  ということは、もう二度とあのひとをみつけだす手だてはないということだわ。  あれこれ思い悩むうちに、都志子はうとうととしたらしい。  ふと、厭《いや》な予感のようなものがして、浅い眠りから眼を覚ました。しんとしていた。  室内には、月光が射《さ》しているかのように、全体に仄白《ほのじろ》かった。  いつのまに眠ってしまったのかしらと呟《つぶや》き、腕時計を見た。十二時を過ぎたところだった。とすると三時間以上も眠ったらしい。  口の中が粘ついていた。胸が妙に重苦しい。空気が濃密で、微《かす》かな吐き気がする。空腹でバーボンを飲んだせいかしら、と思った。  仄白い室内を眺めていると、胸が妙にざわざわと騒いだ。おかしいとふいに思った。月の光が射しこんでいるような感じなのに、カーテンは閉まっているのだ。はっとして壁づたいに視線を移した。なんということだろう、天井と壁の境目に月が出ている。三日月だった。都志子は打ちのめされたように、ベッドに身を沈めた。  あの話は本当なのだわ、と金しばりの状態で彼女は思った。ベッドに釘《くぎ》づけにされたように横たわっている都志子の上に、月の青々とした光が惜しみなくふりそそいでいた。やがて、ベッドがぐらりと揺れた。  嘘  ウェイターが載《の》せてきたトレイの上の飲みものから、加南子《かなこ》は白ワインを選んだ。小さなチューリップ型のグラスの表面に、いかにも冷たそうな水滴がたくさんついていて、薄い琥珀《こはく》色のワインが美味《おい》しそうに見えたからだ。  彼女はグラスのふちから一口|啜《すす》って、軽く失望の表情を浮かべる。パーティーで出るワインなんて、せいぜい小売りで二、三千円どまりのものにきまっているのだ。国産の安いテーブルワインだってこともありうる。  いつもあとで気がつくのだが、いかにも冷たそうな水滴を浮かべたワイングラスの形に魅《ひ》かれて、手を出してしまう。  グラスのふちについた口紅を、紙ナプキンでさりげなく拭《ぬぐ》っていると、人の視線を感じた。それも至近距離の強い視線である。加南子はグラスの上に伏せていた視線を上げて、自分を凝視《ぎようし》している人物をまっすぐにみつめた。  危うく手にしたワイングラスを取り落とすところであった。グリーンがかったグレーのスーツに、イギリスのレーシングカーによくあるような濃いグリーンのタイをしめた男が、困惑したような微笑を滲《にじ》ませている。  その男について、一番最初に脳裏に浮かんだ記憶は、髪の匂《にお》いと、加南子の躰《からだ》をまさぐる親指と人差し指の感触であった。グラスを取り落としそうになったのは、その直後のことだ。  しかし人間の記憶というものは不思議なもので、一秒か二秒の間に、更に数コマ余分に蘇《よみがえ》る。それは一枚の絵のようにではなく、映画の一シーンのように頭の中を流れる。もっと不可解なことには、現実的な時間ではなく、一秒の十分の一ほどのわずかな時間に、フィルムが流れ、場面が変わる。  加南子が男の姿を認めてから、ワイングラスを取り落としそうになるまでの短い瞬間に、彼女の胸をドキッとさせた記憶は、まだ他にもあった。  彼女の臀部《でんぶ》の柔らかい肉に、太くて固い十本の指を深くくいこませて、彼女の躰全体を揺すりたてたやり方や、服を全《すべ》て身につけてしまった後、彼女を眺《なが》める時の独得の眺め方——顎《あご》を突きだし、自分の鼻の頭ごしに、いかにも尊大な態度。征服した女を見る時、時にそんなふうにする男がいるものだが、——とか、『躰が普通の女性《ひと》よりも二分ばかり熱いね』などと自信をもって言った際の声とかを、何の脈絡もなく一瞬にして思いだした。  ワイングラスは、危ういところで落とさずにすんだが、加南子は自分がどうしようもなく取り乱しているのを感じた。そしてその事が男の眼に滑稽《こつけい》に映っているだろうと思うと、顔から火が出そうだった。 「やぁ」と、相手は季節外れに日焼けした眼尻《めじり》に笑い皺《じわ》を刻んだ。  こういう場合、女には適当でぴったりとした挨拶《あいさつ》の言葉がないことに、加南子は改めて気づいた。今晩は、というのが一番無難だが、間がぬけている。お久しぶり、というのも、つい二日前のことを思うと妙である。ごきげんよう、の柄《がら》でもない。英語なら、� Oh《オー》 Hi《ハイ》. �で男も女も済《す》んでしまう。オー・ハイの直訳が「やぁ」に近いが、女が、やぁというわけにはいかない。そこで彼女は曖昧《あいまい》に微笑して軽くうなずく。 「あなたの顔ったらなかったよ」男が耳元に口を寄せる。人の耳を意識して声をひそめても、ちっとも用心にはならない。かえって疑いを呼びさますやり方だ。誰かが目撃していなかったかと、加南子は気が気ではない。 「だって驚いたんですもの。——ほんとうにびっくりしたわ」加南子が言う。「こんなところでパッタリ顔合わすなんて」 「悪いことはできないね」男が苦笑する。「柴田夫妻とは知りあい?」 「えっ?」加南子は咄嗟《とつさ》にどう答えようかとうろたえる。 「柴田さんはよく知ってるんだけど。大学の大先輩。でも彼の奥さんになる女性とは面識がなくてね」男は会場を漠然と見廻す。 「彼とはどういうお知りあい?」加南子が口ごもりがちに訊《き》く。 「柴田さんと? ヨット仲間ですよ。というより彼のクルーザーにのせてもらってるんだけど」男の眼は会場の奥で談笑している柴田の横顔をとらえる。柴田が再婚だということもあって披露パーティーは、ごくうちとけたビュッフェ形式がとられている。パーティーの客がまだすっかりそろわないので、会場はなんとなくざわざわしていた。司会者らしい男が、マイクの具合をテストしている。  男が急に何か思いだし、ばつがわるそうに呟《つぶや》く。「例の約束、実行しなかったけど——」 「だろうと思ったわ」加南子が少し早すぎるタイミングでうなずく。 「約束ってほどのことでもなかったよね」男は何かを期待するような表情を浮かべる。 「あの時酔ってたし、特にああいう情況だったから」 「わかってるわよ」と加南子が苦笑する。「もちろんよ、ぜんぜん気にしてないわ」胸が刺されたように痛む。気にしていないどころか、その約束に女の全てを賭《か》けていたようなところもあったのだ。 「でも、君、昨夜まさかあの場所へは行かなかったろう?」男が思いきったように訊く。 「ええ、もちろんよ。……もちろん」加南子が答える。マイクのキーンという金属音が、会場に響き渡る。パーティーの招待客たちが、いっせいに司会者を見る。司会の男が頭を掻《か》きながら、機械を調整する。「もちろん、行かなかったわ」  けれども加南子は実際には、行ったのだ。行って男を待った。  男は言ったのだ。加南子の躰に夢中だ、と。君にメロメロだ。女なんてものはみんな同じだという考えを、今夜かぎり変えるよ。もう君以外の女とでは、僕は満足しないと思う。君をどこの誰だか知らないけど、そんなことはかまわない。もしもう結婚しているのなら、君の夫から奪い取ってやる。 「結婚はしていないわ、まだ」と加南子は男の背中に顔をすり寄せながら言った。あのことが終わった後に会話ができる男は素敵だし、男の質はむしろセックスの巧拙などよりも、その直後の態度や会話の有無、内容などに重大に係わっているのだ。彼の皮膚からは太陽の匂いがしていた。筋肉はどこもかも固くて、弾力があった。髪も清潔な香りがした。  お腹も出ていないし、筋肉もたるんでいない。口の中も嫌な臭いがしないし、唾液《だえき》でべたべたした口で加南子を嘗《な》めまわしたりはしない。もうそういうの、うんざりだわ、と彼女はなおさら強く男の背中に顔を押しつけてうめいた。「あなたが好きよ」 「わかってる」低い声で男が呟いた。 「ほんとうに?」 「うん。君の躰の反応で、わかるよ」そして彼は急に彼女の腕の中で反転して加南子と向かいあう。 「僕も好きだよ」それから二人はもう一度始めから愛しあう。情欲は狂おしく、とどまることを知らず、すっかり放血したような気分になった時には朝になっていた。 「このままこれからどこかへ行かない?」もうあのぶよぶよとした脂肪太りの肉体を、自分の肌に押しつけられるのはたまらない。別のほとんど完璧な肉体を知ってしまった後では、堪えられない。それからあの生温い舌で、あちこち嘗めまわされたりするのも、脂肪のついた女のような指で、躰のすみずみをいじくられるのも、我慢できない。加南子は若い男のごつごつとした日焼けした手に口を埋《う》める。 「会社を休むわけにはいかないな」と、男が答える。「女の為に仕事を投げだすのは嫌だよ」 「わかるわ」加南子がうなずく。「じゃ明日の夜なら」 「週末なら何とかなるな」と男が言った。「でも、君はほんとうにいいの?」  加南子は微笑した。「自由ですもの、私」 「実を言うと、もう結婚している女性かと思ったんだけどね」 「まさか。独《ひと》りよ。今のところは」 「今のところは?」 「結婚を迫っている男くらいは、いるわよ」 「そりゃそうだろうね」若い男は加南子のほっそりとした肩の先を撫《な》でる。「婚約しているの?」  加南子は一瞬言葉につまる。「結婚することになっている男《ひと》はいるわ。でも先のことよ」 「結婚と遊びは別々ってわけだね」男が勢いよくベッドの上に起き上がる。「そろそろ行かなくては」 「明日の夜のこと、どうする?」 「週末旅行? かまわないよ」と男は服を身につけながら答える。「用事がひとつあったけど、——でも、君と旅行する方がエキサイティングだから、キャンセルしちまうよ」 「私もひとつ、予定があるんだけど」と加南子が呟く。「キャンセルするわ」 「どこへ行こうか?」靴下をはきながら男が言った。 「できるだけ遠くがいいわ。土曜日の夕方には、東京から遠くにいたいの」 「たとえば?」 「少なくとも京都くらいまで」 「京都ね。悪くないね」男が立ち上がる。 「どこで待ち合わせよう?」 「昨夜と同じ所では?」 「このホテルのバー?」 「そうよ。そこで私たち知りあったんですもの」 「オーケイ。じゃ明日の夜、七時頃。それでいい?」 「いいわ」  男がホテルルームを出て行きかける。その背にむかって、女がもう一度言う。 「私は本気よ」 「僕だってさ」男の手がドアのノブにかかる。「だけどまだ信じられない気もしてるんだ。なんだか、思いもかけぬ贈物をもらっちゃったみたいだ。それもとびきりすごい贈物」  加南子は満足気に微笑《ほほえ》んだ。そして男はドアの隙間《すきま》から滑《すべ》り出て消えた。その後少しして、彼女はその若い男の名前も知らないのに気がついて苦笑した。 「結局、贈物が重荷だったのね?」加南子がパーティー客の一人に笑顔で会釈《えしやく》をしながら、男にむかってさりげなく言う。 「というより正気に返ったというのだろうな」と男も苦笑する。今夜の主役の柴田が、司会の男と何か打ちあわせている。招待客の数もずっと増え、談笑する声があちこちでしている。 「柴田さんも、若い奥さんもらったんだから、そのうちあの腹もひっこむかな」男が片目をつむる。「つまり夜毎《よごと》のベッドでの運動でさ」  加南子はちょっと嫌な顔をする。 「でもあの年で案外純情なんだよ、彼。今度の奥さんのことなんか、クルージングに出るとよく喋《しやべ》ったもの。ずいぶん長いこと口説《くど》き続けたらしいけどね、中々うんと言わなくて、やっと落ちたなんて、あの喜びようはなかったから」男は加南子が黙っているので喋り続ける。「だけどね、ここだけの話だけど、二回りも年上の男と一緒になる女ってのは、僕たちの年代から見ると、なんか動機が不純なんだよな」 「事実、不純なんでしょうよ」加南子が素気《そつけ》なく答える。 「君もそう思う?」男はニヤリと笑う。 「誰だってそう思うわ」加南子の声に苛立《いらだ》ちが混じる。「どうして昨夜、来なかったの?」ほとんど聞きとれない程の低い破綻《はたん》した声だった。 「えっ。何?」若い男がまっすぐ加南子の瞳《ひとみ》をみる。 「どうして七時にバーに来なかったのと訊いてるの」うってかわって思いつめたような表情が浮かんでいる。 「まさか」と男が一瞬たじろぐ。「君、七時にバーへ行ったんじゃないだろうね」 「そういう約束だったわ」あくまで沈んだ声で加南子が呟く。 「だってさっき君、バーへは行かなかったと、言ったじゃないか」 「ほんとうは行ったのよ。何故|嘘《うそ》をついたのか自分でもわからないけど」  男が急に黙る。会場のどこかで華やかな笑い声が上がる。柴田が司会者と握手して、そばを離れる。 「冗談かと思ったんだ」 「本気だって言ったでしょ。忘れた? あなたも言ったわ。僕も本気だって」 「あの時は事実そのつもりだった。週末旅行してもいいと思ったのさ。面白そうだし、君はファンタスティックだったから」 「じゃなぜ気が変わったの?」 「現実的じゃないからさ。バーで拾った見知らぬ女とすぐ翌日から京都へ行くなんて話は、全然現実的じゃないよ」 「でももしかして、私が七時にバーで待っているかもしれないとは、ちらとも考えなかった?」加南子は少し青ざめた表情で言う。「ね、ちらとも考えなかった?」 「本当のことを言うとね、君がバーに来ているような気もしないではなかった」 「なのに、来なかったわね」 「正気じゃないからさ」 「少なくとも来て、気が変わったとか何とか言うべきじゃない?」 「そう言われればその通りだよ。謝る」男の顔から微笑が消えかかっている。 「でもどうして気が変わったの?」加南子が更に抑《おさ》えた声で質問する。司会者が、おまたせしました、とマイクにむけてにこやかに言っている。 「今夜のことを思いだしたんですよ」と、男は開き直ったように言う。「クルーザーのキャプテンの結婚披露パーティーをすっぽかすわけにはいかないじゃないか」 「そのことなら、前の日にもわかっていたでしょ。あなた、キャンセルするつもりだって言ったじゃないの」ひややかな言い方。 「私にもとても大事な予定があったけど、何もかも失うつもりで出かけたの。九時半まで待ったわ。惨めだった。一度出て、また戻って、閉店までバーにいたわ。何人の男がその間に声をかけて来たと思う? 九人よ」 「バーで一人で飲んでいる女がいたら、放っとく手はないものな。それも美人だったら尚更《なおさら》だ」 「女の方も、ホテルのバーで一人で飲む時には、そのつもりがあるのよ」 「釣り糸を垂れなくとも、魚の方から飛びこんでくるって感じだな」その言葉に加南子は傷ついたように下唇を咬《か》む。 「そうすることで身を守るってこともあるわけよ」  男が理解できないという表情をする。「とにかく、こんな話題は、誰かの披露パーティーでする種類のものじゃないな。もう打ちきろうよ」  しかし、加南子はそれを無視して言いつのる。 「気色《きしよく》の悪い怪魚につかまってしまうよりは、姿のいい小魚に食われた方がまだましだと思ったんだけど」 「その気色の悪い怪魚というのは、誰のことを言っているの?」男は初めて不安そうに加南子を見つめる。 「今、まさにこっちに向かって歩いてくるわ」加南子は死んだような声で呟《つぶや》く。男が驚いて近づいてくる柴田をみる。 「まさか」 「タキシードでなんとかごまかしてるけど、あのボタンの下は脂肪でだぶついてるのよ」 「よう、君たち」と、柴田が色の悪い唇をほころばせる。「君たちが知りあいだったとは、驚いたね」  きれいにオールバックになでつけた薄い毛髪の中で、汗が光っているのが見える。 「最近お逢《あ》いしたばかりなのよ、ね?」と加南子が柔らかな表情を新たに加える。 「ほんとうかね? なんだかずいぶん深刻に話しこんでいたみたいだぞ」と、柴田は若い後輩の肩をポンと叩《たた》く。  男は、声も出ないという感じで息を呑《の》んでいる。 「その証拠に、お名前も知らないのよ」と加南子が夫を見上げる。「紹介して」 「野田君だ。僕の優秀なクルーの一人だよ」  加南子は男にむかって右手を差し出す。 「私、加南子です。よろしく」  野田と紹介された男は、差し出されている加南子の右手を凝視する。彼女がうながすように、軽く右の眉《まゆ》を上げる。野田が遠慮がちに加南子の手を握り、すぐに放す。 「ハネムーン・クルージングに明日の日曜日、佐島《さしま》あたりまで出てみよう思うんだが、君、予定つく?」柴田が気軽に訊《き》く。 「ハネムーンでしょう? いくらなんでもご遠慮しますよ」まるで怖気《おじけ》づいたように野田が怯《ひる》む。 「みんなでワイワイ騒ぐだけさ。船上でシャンペンを抜くぞ。ドン・ペリニョンを花嫁のために奮発したんだ。遠慮はいらんさ」 「野田さんは、きっと大事なデイトなのよ」加南子が横から口をそえる。  その時、招待客の一人が柴田の注意を引く。 「失礼、すぐ戻る」と、彼はその方へ歩きだす。「わざわざご遠方を、どうも」と、年配の人物に向かって頭を下げる。  野田が加南子に言う。 「頭をがんと撲《なぐ》られたみたいな感じだよ、柴田さんの相手だなんてまだ信じられない」 「ホテルの部屋で言ったでしょ。結婚することになっている男性《ひと》はいるって」 「ずっと先みたいな口調だったじゃないか」と野田がなじる。「で、何時《いつ》したの?」 「今朝よ。十時に」 「しかし、もしかしたら今頃、僕たちは京都にいたかもしれなかったんだぞ」さすがに野田は蒼《あお》ざめる。 「そうなってもかまわないと思ったの」 「冗談じゃないよ」 「駈《か》け落ちでもしないかぎり、柴田とはどうしようもないんですもの」 「柴田さんのどこが悪い」 「何もかもよ」 「じゃ何で結婚なんてするんだ」 「押しまくられたのよ、それで疲れちゃったの。でも、あなたが臆病風《おくびようかぜ》に吹かれなかったら、今頃京都で紅葉を眺めていたわ」  加南子は遠い眼をする。  マイクにむかって、新郎の大先輩という人物が演説している。ほとんどの人は黙々と皿の中の肉切れやスモークサーモンなどを突っついている。 「僕たちはたった一度しか寝ていないんだよ」 「一度寝れば、自分の男かどうか、わかるものよ」 「悪かった、謝るよ」男は眼を伏せる。 「謝らなくてもいいのよ。ただあなたが現れて、何もかもが急に変わっちゃったの。あなたとああいうふうになって、世の中にこんなに美しい肉体があるのか、と思ったとたん、彼のことが死ぬほど嫌になっちゃったの。理屈じゃないのよ。生理的な次元の話よ」 「ごめんごめん」と柴田が戻ってくる。 「クルーの件で野田くんを口説いてくれたかね?」  加南子が苦笑する。「ご自分で口説いたら? 私はとっくにふられているの」 「そいつは聞き捨てならないぞ」と柴田が大袈裟《おおげさ》に眼をむく。「君は何時《いつ》、野田君を口説いたんだ?」 「つい昨日のことよ」と加南子は無頓着に言う。「駈け落ちしましょう、って」 「おいおい、驚かさないでくれよ」柴田が胸の両脇《りようわき》でホールドアップの真似をする。 「でも振られたわ。ものの見事に、本当よ」 「助かった」ひゅーと口から息を吐く。「まあ冗談はさておいてだ、君たちはどこで逢ったの?」何も疑っていない口調だった。 「ホテルのバーよ」 「ホテルのバーへなど加南子は何しに行くんだ?」寛大な態度を、柴田は崩さない。 「若くて素敵な男はいないかと、探検に行くの」 「若くて素敵な男がいたかね」 「野田さんがいたわ」野田が顔をしかめる。 「偶然に?」柴田が穏《おだ》やかに訊く。 「そうです」慌てて野田が答える。 「で、知りあったんだね。ほんとに偶然なのか。面白いね、人生てのは」柴田が首をしきりに振る。「どっちが先に声をかけた?」 「僕です」野田が唐突に呟《つぶや》く。声が少し掠《かす》れている。 「正確にはそうじゃなかったわ。私が誘惑したの。野田さんに声がかけやすいような態度をとったの」 「で、野田くんが声をかけた。それから?」 「お酒を飲んだわ」 「十時頃までですよ」野田が口をはさむ。 「十一時半よ。ラストオーダーの後ですもの」加南子の声は落着いている。  急にあたりに拍手が起こり、マイクの前から挨拶の人が下がる。それへ向かって柴田が軽く会釈をする。今度は新婦の側のスピーチを、と司会者が加南子の友人の名をあげる。加南子が自動的にその方角に向かって微笑する。 「それで? 加南子は大人しく野田君を帰したのかい?」 「加南子は悪い女だから、野田さんを誘惑しました」 「柴田さん、冗談ですよ。加南子さんもひどいな。言っていい嘘《うそ》と悪い嘘がある」野田が顔色を変える。 「冗談は初めから承知だよ。君もユーモアのない男だね」となぜかびしりとした感じで、急に怒ったように言う柴田。 「加南子は嫌がる野田さんを、たて続けに五回犯しました」  野田の顔が屈辱と怒りで赤くなる。 「それで加南子は別れ難く感じて、野田さんを口説いたのよ。駈け落ちしてちょうだいって」 「断られたのか。可哀《かわい》そうに」柴田が加南子の肩にそっといたわるように手を置く。 「そうなの、振られたの。すっぽかされたのよ。京都へ逃げるはずだったの」 「やれやれ。すっぽかされて良かったよ。でなければ今頃、僕がこのパーティーをすっぽかされて大恥をかかされているところだ」そう言って柴田はじっと花嫁の瞳《ひとみ》の奥をみつめた。三人はそのまま無言で、しばらくスピーチに耳をすませる。 「加南子さんは、ざっくばらんなお人柄で、誰からも好かれました。こんなエピソードがあるんです。女学生の時——」 「全然信じないのね、あなた」加南子が夫の傍《そば》に身を寄せて言う。 「だって先週も君は同じようなことを言っとったぞ。ホテルで黒人を誘惑したとか。その前はカントリーウェスタンの歌手で、その前は誰だっけ?」柴田はやれやれというふうに頭をふる。 「だめだよ、加南子は嘘が下手くそなんだから」  柴田は同意を求めるように野田をみる。「そうだろう? 心にやましいことがある女なら、少しは隠しだてするだろう。それをペラペラ言っちまうから、作りごとだってことがバレちまう。もっとも作りごとで僕は助かるがね」 「それでは新郎と新婦をご紹介しましょう」と司会者が大きな声で言う。柴田と加南子が顔を見合わせ、呼ばれた方へ歩きだす。  数歩行きかけて、加南子が首だけねじって振りかえり、野田の眼をみつめる。 「でも、あなたは全部信じるでしょう?」と眼で問いかける。  そして彼女は人々に見守られる中を、夫の腕につかまりながら中央へと歩いていく。いかにも幸福な花嫁といった感じを後姿に漂わせながら。 出典一覧  あっ    『彼と彼女』  角川文庫 一九八七年  通り雨   『あなたに電話』  中公文庫 一九九一年  オープニング・パーティー 『パーティーに招《よ》んで』  角川文庫 一九九三年  |紅 い 唇《レツド・リツプス》  『ママの恋人』 角川文庫 一九九四年  金曜日の女 『誘われて』 集英社文庫 一九九〇年  同 僚   『あなたに電話』 中公文庫 一九九一年  ポール   『彼と彼女』 角川文庫 一九八七年  別れ話   『あなたに電話』 中公文庫 一九九一年  危険な情事 『あなたに電話』 中公文庫 一九九一年  壁の月   『彼と彼女』 角川文庫 一九八七年  嘘     『ミッドナイト・コール』 講談社文庫 一九八七年 角川文庫『金曜日の女』平成8年4月10日初版発行            平成13年1月20日9版発行